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2014年12月28日日曜日

フォーラム参加者のご発言 2 [フォーラムをふりかえって 8]

 次に会場の男性から、「志村正彦 表現の特徴と世界観」を発表していただいた前嶋愛子さんに、一番好きな曲は何ですかというご質問がありました。
 前嶋さんからは次のようなお答えがありました。

 どれも好きな曲ばかりですが、一曲といえば、「赤黄色の金木犀」です。
 日々人の生き死に関わる仕事をしています。志村君は命のはかなさとということをよくわかっていた人ではないかと感じます。だから発表でも申し上げましたが、なくなってしまったものへの気持ちを歌詞の中で語るのではないかと思っています。この曲ではそれを金木犀の香りに託すんですよね。嗅覚は人の五感の中でとても強いもので、感覚として残るといわれています。金木犀は季節も限られますし、たくさんあるものでもないと思いますが、その一瞬を香りに託して歌っている。はかないものへの気持ちを知っている人だなあと、心をいつも揺り動かされます。
 私にとっては命のはかなさを感じることが日常であり、日常にしなければやっていけないというところがありますが、時々ふと感情的になったりすることもあるので、そういう時は必ず志村君の曲を聴きたくなります。

 次にお話ししてくださったのは、大阪からいらっしゃった女性の方でした。

  フジファブリックはメジャーデビューの前の2003年くらいから聞いています。
 先日、あるライブであるバンドのボーカルの方がソロで「若者のすべて」をカヴァーしていました。 ライブの後そのボーカルの方は、フジファブリックをあまり知らなくて、この一曲くらいしか知らないと話していたのを耳にしました。
 今日の展示で、志村君が歌詞を書き直して完成させたのを見ましたが、伝わっているんだなあと思いました。これからも多くの歌い手の方に志村君の歌を歌っていってほしいと、今日ここに来て強く思いました。

 志村さんの歌が歌い継がれていくことはご来場のみなさんの願いでもあるようで、大きな拍手が起こりました。

2014年12月20日土曜日

フォーラム参加者のご発言 1 [フォーラムをふりかえって 7]

 四人の発表者にお話ししていただいた後、「志村正彦フォーラム」にご参加いただいた方の中から挙手をしていただいて、お話しをしていただきました。今回から、お話の要約を御報告したいと思います。
 最初に手をあげてくださったのは富士吉田出身の女性の方でした。

 大学進学を機に地元を離れましたが、自分にとっては山梨、地元の風景が好きにはなれませんでした。2008年の富士吉田ライブで、志村さんとフジファブリックに出会い、聴いているうちに山梨っていいなあと思えるようになりました。それからフジファブリックに何回も救われてきました。
 これからも応援していきたいし、志村さんのことばは残っていくと思います。自分自身もネガティブなことばをつかわないでいこうという気持ちになりました。

 とても真摯にお話ししていただいたのが印象的でした。
 次に同じく富士吉田の男子高校生がお話ししてくださいました。

 志村さんの音楽や詩は本当にすばらしい。富士吉田はロクでもないと言うと何だが、田舎で、東京が近いから憧れが強くて、山に囲まれていて閉塞感があって、峠を越えた甲府に対する意識もあって複雑です。志村さんもきっとそういうものを抱えていたと思います。
 中学生のとき先生から地元にこんな素晴らしい人がいると志村さんの話を聞きました。でもその時は2010年で志村さんは亡くなっていて、残念だがライブに行くことはできませんでした。志村さんのおかげで富士吉田を誇れるようになったし、いつか地元を離れる時が来ても、いつまでも忘れないでいたいです。

 ユーモアをまじえて話していただいて、会場からは笑いが起こりました。
 続いて高知出身の男子大学生がご自分の進む道を決めるきっかけとなった、志村さんとの出会いを話してくださいました。

 進路に迷って、勉強もしないで、将来を楽観的に甘く考えていました。でも、なんとなく普通のサラリーマンになるのはいやだなあと思っていました、中学三年の時、「桜の季節」のPVを見て衝撃を受けました。自分もプロモーションビデオを作りたくなり、東京の美術大学の映像学科に進学しました。
 志村さんに、またPVを作ったスミスさんに出会えていなければ、今の道に進むことはなかったのでとても感謝しています。これからも音楽を聴いて一生ファンでいつづけようと思います。

 志村正彦さん、フジファブリックの音楽との出会いが、故郷を新たに見いだしたり、自らの道を見つけたりするきっかけとなったとの話が続きました。


 

2014年11月18日火曜日

鈴木亮介さんの発表「志村正彦-軽音部・賢治・青春-」[フォーラムをふりかえって 6]

 
 続いて「WebロックマガジンBEEAST」副編集長の鈴木亮介さんにお話をしていただきました。鈴木さんは直接フジファブリックの取材をなさったことはないとのことでしたが、最近の高校生のバンド活動への志村さんの影響を始めとして、多様な観点からお話ししてくださいました。

 高校生、10代のみなさんのバンド活動について取材していると、今は軽音部が大変隆盛だと感じます。中には100人を超えるような部もある。昔は軽音部というと不良の溜まり場といったイメージが強かったと思いますが、今はそんなことはありません。
 顧問の先生も名ばかりではなく実際に技術を教えられる方がたくさんいますし、機材や練習場所やバンドをやっているといろいろお金がかかりますが、学校の部活ならそれが無料で使えます。そんなわけで楽器をやるという間口はとても広くなっていて、一年生の時はひたすら基礎練習、目標は大会で優勝することというまるで体育会系のような状況も生まれています。
 
 そんな中でフジファブリックは人気のバンドの一つです。でもみんながキャアキャア騒いでいる感じではなくて、ミーハーより本格志向、軽音部の中では割と地味で、技術があるそんなバンドがコピーをしていることが多いように見えます。
 さて、バンドをやりたい若者にとって、かつてないほど間口が広がって、恵まれた状況なわけですが、だからといって、よい音楽が生まれ、ロックスターが出てくるかというと、逆なわけです。志村さんが軽音部で、部活の仲間と練習しているっていうのはちょっと想像できないですよね。物があったり教える先生がいたり気軽に始められたりという豊かな環境があればいいというわけでもなくて、制限された中でいろいろなハードルがあったりするほうがむしろ素晴らしい音楽が生まれてくるような気がします。


 ここからはほんとうにファンとしての思いになってしまいますけれども、志村さんの音楽に対する原動力とはいったいなんだろうと思います。今日展示を見ていて、宮沢賢治とリンクするような気がしました。宮沢賢治も37歳の若さで亡くなって、賢治の方がもっと不遇な状況で、生前に一冊しか本が出せなくて死んでから評価されたですけれども。賢治も一つのセンテンス、ワンフレーズ、一つのことばを何度も何度も消したり書き直したりした跡が原稿に残っているんですね。そのへん志村さんの詩の作り方と通ずるとことがあると思いました。
 志村さんがこの時代にここまで徹底して一つ一つのことばにストイックに向かい合ったというのは稀有なことかなと思います。結局その原動力とは何かはよくわからないんですが、それは簡単にわかるようなことではなくて、何か内側から湧き上がってくるもの、天から与えられた才能なのかなと思ったりもしました。

 中国に五行説というのがありまして、「青春」というのはみなさんよくご存じだと思いますが、実は人生を4つの季節になぞらえたもので、自我が確立する16歳くらいから30歳までを「青春」、30~40歳を「朱夏」、40~50歳を「白秋」、50歳以降を「玄冬」と言います。 五行の五番目は土に還る、つまり死を意味します。
 そんなライフステージを考えると、志村さんは「青春」の間を生き抜いて残念ながら人生を終えてしまったわけですが、もし今生きて次のステージに入っていたらどんな歌を作っていただろうと思うと、想像するだけで楽しみな気がします。

 人が死んだあとに何が残るかというと、亡くなって数十年は関係した人達の記憶に残るかもしれませんが、徐々に忘れられていって、そのあとに残るのはことばだと思います。ことばというのは、もう少し広く解釈して絵画とか、彫刻とか、写真とか、音楽とかも含めていいかもしれません。松尾芭蕉は人は儚く、永遠と思われる山河のような自然も姿を変える。残るものはことばであると言っています。
 そういう意味で、今回志村さんのことば、詩の世界に着目したこのイベントはとても良い場だったと思います。                                                     

 鈴木さんの御発表は、高校生の軽音部の活動への言及、志村さんと宮沢賢治の詩の作り方の類似性の指摘、中国の五行説による考察など、ジャーナリストらしい目配りのきいた、とても充実したものでした。

2014年11月3日月曜日

前嶋愛子さんの発表「志村正彦 表現の特徴と世界観」[フォーラムをふりかえって 5]

 倉辺さんに続いて、前嶋愛子さんの発表がありました。
 前嶋さんは志村さんの詩の「表現の特徴と世界観」をテーマに丁寧な読解をもとに発表して下さいました。記録映像から文字に起こしたものを以下掲載します。


 志村君の詩は、日本語、英語にしてもカタカナ表記です。その中で志村君は語感をとても大切にしていると感じられます。例えば擬音語、擬態語などオノマトペの多用ということがあります。藤井フミヤさんに提供した「どんどこ男」はタイトルからしてそうですし、有名な「銀河」の「タッタッタッ タラッタラッタッタッ」などたくさんあります。語感という点ではもう一つにはリフレインが多い、単にサビの部分を繰り返すだけではなく、印象的なフレーズが多いと思います。

 また歌詞の中にどことなく昭和の風景が見えてくるというのも特徴だと思います。富士吉田を訪れたことがある方ならおわかりだと思いますが、まさに歌詞の風景がそこにあります。私も志村君と同世代ということもあって、路地裏とか、駄菓子屋とか、スポーツだったらサッカーより野球といった昭和の風景が投影されているところに懐かしさを感じますし、生まれ育った場所は違いますが、共感できます。

 ここからは私が今回お伝えしたいことに入るのですが、使われている人称を見てみると、一人称の場合は「僕」、一部「俺」という場合もありますが、ほとんど「僕」で、二人称は「君」または「あなた」となります。基本的に「僕と君」もしくは「あなた」の物語という中で語られる世界です。志村君はロックスターなので、女の子にとっては憧れ、恋の対象になってしまいがちです。だから、聴いたり読んだりしていて、「君」とか「あなた」つまり女の子との関係性が気になります。
 では、志村作品の女の子たちはどう描かれているかというと、歌詞と言うよりも映像、特にスミスさんが撮った初期のミュージックビデオの影響で制服の美少女、女子高生、そんなイメージが強いのではないでしょうか。

 志村君自身の妄想癖というと語弊があるかもしれませんが、妄想が爆発する歌詞が結構あります。例えば、初期の作品「花屋の娘」は「暇つぶしに」花屋の娘に恋をするというところから始まって全編妄想でできたような詩ですが、では、妄想で何をしているかというと公園に行って、かくれんぼするというように随分かわいらしい。妄想といってもそんな類のものです。

 また、パーツに対するこだわりのようなものも見受けられます。例えば、髪の毛に対して、「赤くなった君の髪が僕をちょっと孤独にさせた」(「午前3時」)や「君が髪型を変えたことが気がかりです」(「記念写真」)などは、髪のせいで孤独になったり気がかりであったりするんですが、それを相手に聞けずに悶々としている様子がうかがえます。また、口、声にもこだわりがあって、これは志村君がヴォーカリストだということも関係しているのかもしれませんが、「唇のソレ」の口元のほくろや「マリアとアマゾネス」の声などパーツに言及しているものが多いです。

 こうしてみていくと、「君」を女の子と想定していたのが、そもそもそれでいいのかと気になってきます。だいたい「愛している」とか「好きだよ」ということばは一切出てきません。唯一「水飴と綿飴」の中に「love you」と出てくるんですが、すぐあとに「嘘だよ」と切り返していて、ひねってあるというか、単純なラブソングの枠組みでは志村作品の「僕」と「君」との関係性は読めないようになっています。

 そうした表現上の特徴から一歩踏み込んで「君」と「僕」との物語を考えてみると、特に初期の曲の歌詞には、すでに去ってしまった相手への思いを綴ったり、回想したりしているものが多いと思います。その表現がとても巧みで、「儚く色褪せてゆく」花に過去の君を投影したり(「花」)、実際思い返してみると「感傷的にはなりきれない」自分に気付いたり(「赤黄色の金木犀」)というふうに表現されています。過ぎ去ったものへの思いで、立ち止まる僕というものが描かれているところが非常に印象的です。
 「陽炎」の歌詞の中では「君」ではなくて「あの人」という三人称に変わっています。一見相手との距離が遠くなっているように見えますが、通り雨が降ってやむまでのほんの短い時間の中で「あの人」のことを思ってしまう、そういう深い関わりのある相手であることを私達に想像させてくれます。

 「走る」「逃げる」「追いかける」などのことばが多いことはさきほどの発表にもありましたが、「二人で」とか「あなたと」「逃げる」というような表現があります。ここでは「銀河」と「サボテンレコード」を例に挙げましたが、「あなたと」逃げるとか「あなたを」連れて行くとかというのは、何から逃げるかわからないんですけれども、とても強い気持ちを表していると思うんですね。「愛している」というようなことばではなくて行動で表すというか。

 今挙げた二曲は初期の曲ですが、中期以降の曲で同じようなシチュエーションを探してみると、一緒に逃げるのではなく、自分が相手のところへ行くというふうに少し変わってきています。「銀河」や「サボテンレコード」は「向かおう」「連れて行こう」と言いますが、いずれも未然形で、ほんとうに二人で逃げたかどうかはわかりません。
 それが「星降る夜になったら」では「迎えに行く」と言いながら「迎えに行くとするよ」となって、まだ実際に行ったかはわかりませんが、「Suger!」 になると「君に届けに行くから待ってて」と相手に投げかけていて、意思表示をして自ら動こうとしている「僕」の姿が想像できます。このあたりは時間を追っての変化だと思います。                                                                             

 今日の展示パネルにも、「二人」から「僕ら」への人称の変化が起こっていて、それが「Teenager」以降だという考察がありまして、その通りだと思ったんです。過去への追慕だったり内省的だったりというのが、一般的な志村君の詩の解釈なのかもしれませんが、近年の作品には動こうとする「君」と「僕」、「僕ら」という関係が描かれていて、それがどうなっていくのか見たかったなあと思います。

 志村さんの詩はいろいろな読み方、聴き方ができ、解釈の自由度があります。そこに書き手の器量の大きさを感じさせます。私はそんな志村君の歌が大好きでこれからも聴き続けたいと思います。みなさまにもそうあってほしいと願って発表させていただきました。


 前嶋さんのご発表は、作品の具体的な言葉に即して、しかも、様々な作品を通して、志村正彦の詩的世界を丁寧に分かりやすく分析したものでした。特に、人称代名詞から読みとれる関係のあり方について深く考察されていて、とても興味深いものでした。

2014年10月20日月曜日

倉辺洋介さんの発表「志村正彦とLOST DECADES」[フォーラムをふりかえって 4]

 新宿LOFTの樋口さんに続いて、倉辺洋介さんが、同世代のファンの立場から、パワーポイントで資料をスクリーンに映しながら、「志村正彦とLOST DECADES」 と題する発表をしてくださいました。
 ファーストアルバムの頃にファンになり、志村さんの曲に励まされてきたという倉辺さんのお話は、志村さんと同じ時代を生きた世代の視点から、時代と歌詞との関係を考察するものでした。発表の要旨は次の通りです。


 志村君はバブル崩壊後に少年期を過ごし、高校卒業後上京した頃には音楽シーンは縮小する傾向にあり、メジャーデビューの頃には景気は少し持ち直したものの、決して右肩上がりではない、明日が今日よりいいとは限らない時代を生きてきました。そんな中、不安を抱き、ある種割り切った感覚を持ちながらも、悟ってしまっているのでもあきらめきっているのではなく、もがいている。そういう世代で共有する感覚があるという仮説のもとに志村君の歌詞を見ていこうというのがこの発表の試みです。

 今日も上映された富士五湖文化センターでのライブでも、普通の大人になりたくなかったから始めた音楽活動なのに、不安視している自分がいるということを志村君自身が述べていますが、やはり志村君自身も時代の不安感、取り残されていくような焦燥感を抱えていたのだと思います。

 今回は、このライブの後、リーマンョックがあり、「派遣村」などということばも聞かれた激動の時代に出されたアルバム「CHRONICLE」を中心に見ていきたいと思います。すると、「描いていた夢に近づけてるのかと日々悩むのであります」(「クロニクル」)、「なりたかった大人になれたのか悩む」(「タイムマシン」)など富士吉田凱旋ライブの夢を達成したにもかかわらずまだ悩んでいる志村君がいる。「明日になればきっと良くなるなんて希望持てれるものならばとっくに持ってるよ」(「Clock」)はまさに先程述べた明日が今日よりいいとは限らないという感覚ですし、「僕はなんで大事なところ間違えて膨大な問題ばかりを抱えて」(「ないものねだり」)などの自分を卑下してしまったりする歌詞が見られます。

 しかし、一方で単純にあきらめているかというとそうではなくて、「折れちゃいそうな心だけど君からもらった心がある」(「ルーティーン」「CHRONICLE」とほぼ同時期に発表された)、「だいたいそうだ なるべくそうだ 後悔だけはしたくないのです」(「タイムマシーン」)、「何かを始めるのには何かを捨てなきゃな 割り切れないことばかりです 僕らは今を必死にもがいて」(「エイプリル」)などには、絶望しないでストイックに向き合う志村君の姿があると思います。

 こう言うと、「CHRONICLE」は異質だからという指摘もありそうですが、このような目で見てみると、ほかのアルバムの楽曲にもそのような面は見られます。例えば、「ダンス2000」はあんなにノリのよいダンスミュージックなのにサビで「いや しかし なぜに」というような歌詞が登場したり、「桜の季節」では真正面から桜の花を歌うのではなくて「桜の季節過ぎたら」「桜が枯れた頃」となっていたりします。しかし「心に決めたよ」と決意を秘めて立っている。


 また「悲しくたってさ 夏は簡単に終わらないのさ」(「線香花火」)のようにあきらめない。他の曲にも前向きに何かをつかみ取ろうと追いかける、走るなどのモチーフが多く見られます。「陽炎」も「きっと今ではなくなったものもたくさんあるだろう」という喪失感がありますが、「窓からそっと手を出して」からあとには一歩踏み出そうという前向きさが感じられます。

  このように18歳で一人で上京し不安を抱き、下積みの苦労をしながらも、あきらめず、進もうとして紡いできた志村君の歌詞には、不安や焦燥を抱えながらもストイックに前向きにもがいているという特徴があり、だからこそ僕らは励まされたり背中を押されたり意志の強さ感じたりするのだと思います。そしてそれが今日のテーマである「ロックの詩人」志村正彦の魅力であると思います。


 倉辺さんの発表は時代背景を丁寧に追って、志村さんの楽曲と時代を結びつける新しい視点を与えてくれました。同世代の聴き手ならではの実感がこもっていて説得力がありました。

2014年10月6日月曜日

新宿LOFT樋口寛子さんのお話 [フォーラムをふりかえって 3]

 志村正彦さんとご親交のあった方々からのコメントの発表に引き続いて、志村さんをインディーズデビュー以前からよく知る新宿LOFTの樋口寛子さん、志村さんのファンという立場から倉辺洋介さん、前嶋愛子さん、ウェブロックマガジン「BEEAST」副編集長の鈴木亮介さんに、各々10分から15分ほどお話しをしていただきました。

 樋口さんはロフトプロジェクトの担当者として、インディーズ時代の「アラカルト」「アラモード」の2枚のアルバムの制作に携わった方です。インディーズデビュー前後の志村さんについて、時に会場からの質問にも応じながら、次のようにお話してくださいました。


 「線香花火」と「茜色の夕日」が入ったカセットテープを聴いて、とてもいい曲だなあと思ったのが出会いでした。最初にロフトにライブにやってきた時は、「若いのがやってきたな」という印象でした。

 当時21歳の志村君はふだんは物静かでしたが、ステージにはうれしそうに立っていました。でも、照れなのか、歌もMCもまっすぐにお客さんを見ることができなくて、そのことはライブ終了後に話したことがありました。それが、メジャーデビューの頃には堂々と前を見て歌っていて成長を感じました。

 ロフトレーベルからインディーズのアルバムを2枚出しました。1枚目の時からいきなり売れたわけではなかったのですが、ライブを重ねるたびにどんどんお客さんの数が増えていきました。 志村君の曲は聴けば聴くほど味がある、そんな魅力があるのだと思います。どんどん増えていくお客さんを見て、長くやってくれるバンドになると確信しました。

 アルバムを作る時も志村君の歌詞やメロディーに対して何かを言ったことはありませんでした。「新しい曲ができました」と生まれてくるものをただ信頼して待っていました。
 インディーズのアルバムにはあの当時にしか出せない空気感や初期衝動がパッケージされていて、今でもよく聴くし大好きです。あれを超えるものには出会えていないです。 


 樋口さんのお話からは、志村さんと樋口さんの間にある信頼感が伝わってきました。インディーズ時代のすばらしいアルバムもこの信頼感があってこそ可能になったのだろうとあらためて感じることができました。
  

2014年9月28日日曜日

ご親交のあった方々からのコメント [フォーラムをふりかえって 2]

ライブ映像上映後、志村正彦さんとご親交のあった方々からのコメントを実行委員が代読させていただきました。

 渡辺平蔵さんと小俣梓司さんは高校時代バンドを組んでいたご友人で、上京してから「富士ファブリック」を結成した時のオリジナルメンバーでした。コメントはパネルにして展示室にも掲示させていただきました。(「ご両親・ご友人・恩師の言葉 [展示をふりかえって 4] 」参照。http://msforexh.blogspot.jp/2014/07/blog-post_26.html )

 渡辺平蔵さんに関しては、パネルに掲示した以外に、小学生のとき、二人で自転車で遠出して帰れなくなり最後に残っていた10円で家に電話をして迎えに来てもらったことや、高校時代にバイクで甲府にエフェクターを買いに行き、帰り道で志村さんが転倒してバイクが故障してしまったこと、「いつもの丘」のさらに奥の見晴らしのいいところに行って、二人で何を話すでもなく座って景色を眺めていたことなどのエピソードもお話ししていただいたので、それをまとめて読ませていただきました。

 お二人の言葉からは、志村さんの普通の少年、青年であった姿と、やはり人とは違う特別であった姿との両方をうかがうことができました。

 もう一人、志村さんの小学校時代の担任であった渡辺光美先生が以前にお書きになった文章を、許可を得てご紹介させていただきました。

 桜の季節になり、志村正彦君、まー君のことを思い出すこと。何かを成し遂げつつあったまー君の突然の死から命のはかなさ、大切さを思い、みなさんにもそれを思ってほしいということ。展示させていただいた学級通信をお作りになった先生の教え子の死を悼む気持ちが伝わってきました。

 お三方とも、お仕事の都合などのご事情があってフォーラムにご参加いただけませんでしたが、コメントの形でご協力いただいたことは大変ありがたいことでした。感謝申し上げます。
  身近で志村さんを見ていた方のコメントは、あらためて失われたものの大きさを感じさせるものであったからでしょうか、会場はしんみりとした雰囲気に包まれました。

2014年9月21日日曜日

フォーラムの進行とライブ映像の上映[フォーラムをふりかえって 1]

  このブログを休載させていただいてから一月以上が絶ちました。本日から再開させていただきます。今回からしばらくの間、「志村正彦フォーラム」についてのご報告とふりかえりを掲載していきたいと思っております。

  「志村正彦フォーラム」は、7月13日(日)14時より山梨県立図書館2階の多目的ホールを会場にして開催されました。定員は200名、後援者や関係者の分を除いて、160名の参加者を募りましたが、1週間ほど前には申し込みが定数に達しました。関係者の数を再確認し、一般の参加者を170名まで増やしましたが、最終的にはお断りしなければならない状況になりました。

 会場のホールは前方上部にスクリーンがあるので、鑑賞しやすいように、当初は余裕を持って椅子を配置する予定でしたが、200名の満席状態だったので、ほとんどすべてのスペースを使って椅子を並べることになりました。後方は段差のある座席になっているので比較的見やすいのが幸いでした。

 当日の進行は次の通りでした。
1.フジファブリック・ライブ映像 3曲上映[予定時間25分]
2.ゆかりの方コメント紹介・講演者4人によるトーク[予定時間55分]
3.フリートーク等[予定時間40分]
 全部で2時間(120分)の予定でした。

 初めに、フジファブリック・ライブ映像を3曲上映した理由は、参加者はもちろん志村さんの熱心なファンが多かったのですが、中にはまだよく知らないで参加したという方もいらっしゃったからです。 映像を見ていただくよい機会だと考えました。

 主催者としてはもう一つの理由がありました。
 志村さんは生前、故郷山梨でのライブについて、第一に実家近くの富士吉田市民会館、次に富士急ハイランドのコニファーフォレスト、さらに甲府の山梨県民文化ホール(昔も今もほとんどの音楽家の山梨公演はこの会場で行われます)の三カ所でやりたいという夢があったそうです。第一の夢は叶い、第二の夢も準備中だったのですが、結局、彼の亡くなった後に「フジフジ富士Q」としてゲストボーカル方式で開催されました。甲府でのライブはおそらく企画にまで上がることもなく、幻に終わりました。だからこそ、ライブ映像を通してではありますが、今回の志村展の会場でもある甲府で、フジファブリックの歌と演奏を会場のみんなで一緒に鑑賞したいという主催者側の想いがありました。擬似的コンサートではありますが、志村さんも喜んでくれるような気がしたからです。

 曲目は次の3点を考えて選曲しました。
・時間の制約から代表曲3つに絞り、年代的なバランスも図ること。
・ライブ映像の会場は、新宿ロフトと富士五湖文化センターの二つが絶対に含まれること。
・彼の人生と作品について知ることのできるMCのある映像であること。

  このような観点から以下の3曲に決め、上映しました。(映像制作者のEMI Records Japan様には事前に許諾していただきました。あらためて感謝を申し上げます)
1.『桜の季節』(2004.4.13@新宿LOFT)                         『FAB BOX』収録              
2.『若者のすべて』(2007.12.15@両国国技館)              『両国国技館ライブ』収録
3.『茜色の夕日』(2008.5.31@富士五湖文化センター)  『FAB BOX II』収録 

 大型スクリーンに映し出される志村さんの映像を参加者みんなで見ることは意味のあることだったと考えています。どれもすばらしい演奏と内容の濃いMCで、夢中で見ているうちにあっという間に時間が経ってしまいました。フォーラムの参加者にお書きいただいたアンケートにも、始めにライブ映像を見ることができて良かったという感想が多く寄せられました。

2014年8月11日月曜日

現実と課題 [展示をふりかえって 11]

 「ロックの詩人 志村正彦展」が終了して一ヶ月が経ちます。これまで展示について10回ほどふりかえってきました。(各々の回にテーマを設けたり、ナンバーを付けかえたりして、題名を少し変更させていただきました)

 この「ふりかえり」を書いた理由は、今後、志村正彦、フジファブリック、あるいはその他のアーティストに対して、何らかの活動をする方々のために、少しでも参考になればという想いからでした。

 人は経験を通して学ぶことができます。今回の試みから学んだことを、様々な問題点を含めて、伝えていくことが必要だと考えました。現実的な制約、予算上の問題、権利上の配慮などについても、簡潔ではありますが、記しました。それらは、読みようによっては、言い訳めいたものに感じられたかもしれませんが、それは私たちの本意ではなく、事実や課題を明らかにすることが大切だという判断をしました。

 この公式webをご覧になっている方は、このような「ふりかえり」よりも、客観的な「報告」、展示資料の紹介や写真の掲載を求められているかもしれません。しかし、すでに書きましたように、『若者のすべて』草稿をはじめ、展示室内の限定公開という性格上、詳細に記すことは控えました。

 この機会に、今回の組織について説明します。「ロックの詩人 志村正彦展」の実行委員会は、非営利の自発的組織でした。私と妻が中心となり、私たちの家族や友人たちの支援と協力を得て、組織しました。企画・資料選択と構成・解説執筆は、代表の私がほぼ一人で担当しました。(したがって、これらに関する全責任は代表の私にあります)原稿については、妻の助言や校閲も経て完成させました。パネル作成、展示室での飾り付け、当日の運営については、家族や友人、仲間たちが中心となりました。

 これまで「展示」についてふりかえってきました。まだ、フォーラムのふりかえりやアンケートの報告が残っていますが、このあたりで、一か月ほど休載期間をいただいて、その後再開したいと思います。
 誠に 申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。

                            「ロックの詩人 志村正彦展」 実行委員会 代表   小林一之

2014年8月10日日曜日

展示室2のアルバム [展示をふりかえって 10]

展示室2入口、壁面は『若者のすべて』草稿解説パネル

『若者のすべて』草稿関連ケース、『志村正彦全詩集』

雑誌展示パネル、ゆかりの品展示ケース

黒のハット(ポスター写真で被っていた帽子)、『FABBOXⅡ』等

ケーブルケース、雑誌追悼号

「Live at 富士五湖文化センター」 ポスター

シングル『LIFE』 ポスター

メッセージ・アンケート用コーナー

2014年8月9日土曜日

『若者のすべて』草稿について [展示をふりかえって 9]

 「ロックの詩人 志村正彦展」の中で最も貴重な展示資料は、『若者のすべて』草稿ノートでした。この資料の存在を知り、その本文を読んだ時から、この草稿を中心に、「ロックの詩人」としての志村正彦を展示するという計画が動き出しました。

 この『若者のすべて』草稿と完成作品を比較検討すると、志村正彦の創作過程が浮かび上がってきます。簡潔にまとめると、次の4点になります。(展示パネルで公開した文を要約したものです)

1.「最後の花火」とそれに関連するモチーフが全くない。
2.時間の設定が異なる。草稿は「七月の今日」、完成作は「真夏のピークが去った」頃である。
3.サビ「ないかな ないかな きっとね いないよな」から始まる構成であり、サビ自体にも違いがある。
4.その他完成作と異なる、いくつかの表現やモチーフがある。

 この草稿はすでにある言葉の水準に達していて、『若者のすべて』完成作につながる世界を充分に表現していました。
 草稿というと未完成、未熟なものという消極的、否定的評価もありますが、企画担当者は幾つかの観点から、この草稿の価値を高く評価しました。

・この草稿はある詩的世界を形成していて、独自の価値を持っている。それゆえに、志村正彦の評価を貶めるようなものでは全くないこと。
・完成作は、草稿の表現内容をさらに高度な水準に変化させている。志村正彦は歌詞を何度も書き直したことが知られているが、その推敲過程を、実際の資料で検証できるものとして、第1級の資料価値があること。
・志村正彦が大切に保管していたと思われる資料群の中から発見された手書きの資料であり、本人もかなりの愛着を持っていた資料だと推測されること。
・ワープロで作詞することが多い時代において、自筆の資料が遺されていこと自体がある意味で奇蹟であること。

 以上のような観点から、この草稿を公開することが、志村正彦という「ロックの詩人」の理解を深めるために重要であると考えました。

 しかし、草稿を公開するために、「著作者人格権」上の「公表権」にどう対応するのかという課題が生じます。「公表権」を簡潔に説明すると、未公表の著作物を発表・公開する権利のことで、著作者人格権により、著作者本人のみが所有するものです。問題は、著作者が亡くなった場合です。死後遺された作品を誰がどのような権利で公表できるのかという問題が生じます。現在、著作者没後の場合、著作者人格権についても、著作権の継承者である家族が一定の範囲内でその権利も継承するというのが国際的に合理的な考え方のようです。

 今回は、そのために、志村正彦氏のご家族に、この草稿の公開の意図と展示方法の概要を説明したところ、今回の展示室内で来場者が閲覧する形に限定して、公開することを承諾していただきました。ご家族の愛情と深慮に満ちた適切なご判断だと思われました。(この場をお借りして、あらためて深く感謝を申し上げます。)そのような経緯から、展示室での撮影は(その他の資料も含めて)禁止とさせていただきました。

 展示についてどのような方法がいいのか、最後の最後まで悩みました。本来なら、この草稿ノートのみを展示すればいいのですが、場所と期間を限定した公開であり、閲覧自体もそれほど時間をかけられないことから、企画担当者側からの「ひとつの仮説」を提示し、パネルをある程度の数用意することで、草稿に向き合う視点のひとつを提供し、みなさまの鑑賞や議論の土台となればいいと考えました。
 当初は数倍書いた説明文を削りに削り、できるだけ簡潔に分かりやすく記述することに心がけました。草稿関連の展示パネルがようやく完成したのは前日のことでした。
 以上のような経緯と考え方により、展示室2での『若者のすべて』草稿関連の展示があのような形となりました。

 アンケートなどを読む限り、『若者のすべて』草稿の展示については肯定的評価がほとんどでした。ご覧になった方々の反応は何よりも、このような草稿が遺されていたことに対する「驚き」という一点に集約されます。そして、志村正彦の創作過程の具体的姿に触れることができ、歌詞を読み直す契機となったという感想も多く寄せられました。企画担当者としては、草稿展示の意図を理解していただいたようで、有り難く思いました。

 『若者のすべて』草稿は、あの展示室で閲覧していただいた方の「記憶」の中にのみ存在しています。上記の経緯から、この公式web上でもこの草稿本文の公開はできません。そのような事情をどうかご理解ください。(当然ですが、企画展担当者も例外ではありません。個人としてもあの草稿の本文に言及することは一切ありません)

 これはあくまで企画担当者の個人的意見ですが、『若者のすべて』草稿が公開されるとしたら、信頼できる出版社から信頼できる書物によって公刊する形で公開されることが望ましいと考えます。その上で、志村正彦の聴き手が各々自由に、この草稿を読み、この草稿について考える時が訪れることを願っています。

2014年8月8日金曜日

二つの記事と写真、メッセージとアンケート [展示をふりかえって 8]

 展示室2では、壁面の4分の1ほどのスペースを使って、『音楽と人』に掲載されたインタビュー記事四つ[樋口靖幸氏が志村正彦を取材した記事(2005年12月号、2008年2月号、2009年6月号)と金澤・加藤・山内の3氏を取材した記事(2010年8月号)]と、『H』2006年3月号の記事(母校吉田高校で取材したもの)の計五つの雑誌記事をそのままB2ポスターケースに入れて展示しました。

 特に、『音楽と人』2005年12月号と2010年8月号の二つの記事は共に富士吉田での取材に基づいて書かれています。二つとも、忠霊塔へと上る階段の同じ位置で撮影された写真が掲載されています。2005年12月号では志村正彦1人が、2010年8月号では金澤ダイスケ・加藤慎一・山内総一郎の3人が、あの階段で佇んでいます。背後には富士吉田の街が広がっています。
 この二つの記事の間、2009年12月に志村正彦は急逝しました。

 死は、人々の哀しみや嘆きを超えて、時に、現実を顕わにします。とても辛くなる、ある意味では残酷で悲劇的な2枚の写真です。企画担当者としては、この2枚の写真がフジファブリックの10年の現実を静かに物語っていると考え、ためらう気持ちもありましたが、御批判も覚悟の上で展示することに決めました。

 展示室2の最後には、「志村正彦へのメッセージ」(志村家に贈るもの)と「志村正彦展アンケート」の2点を書いていただくコーナーを設置しました。来場された方の内かなりの方が時間をかけて丁寧に書いてくださいました。お一人が長い時間かけていらっしゃるので席がたりなくなり、途中で増やしましたが、あきらめてお帰りになったり外でお書きになったりした方もいたようで、申し訳ありません。

 「志村正彦へのメッセージ」は志村さんのご家族にお渡ししました。みなさんの心のこもった言葉はきっと志村正彦さんに届いているだろうと思います。
 「志村正彦展アンケート」の数は400枚以上となり、実行委員で一つひとつ読ませていただいています。本当にありがとうございました。多くの方が長文でお書きくださったので、少しお時間をいただきますが、今後アンケートについてもご紹介していきたいと考えています。

2014年8月3日日曜日

展示室2の構成 [展示をふりかえって 7]

 今回から、「展示とフォーラムをふりかえって」は展示室2に移ります。

 展示室2では、当初、展示室1のⅠ部「志村正彦クロニクル」に引き続いて、 Ⅱ部「ロックの詩人」、Ⅲ部 「フジファブリックの10年」という構成を考えました。しかし、展示室での作業時間の制約(12日の午前の3時間しか確保できませんでした)や展示ケースの数(会場で借りられるケースは残り1つでしたので、結局、ケースを1つ購入することになりました。予算的にはこれが限界でした)などの物理的要因で、当初の予定からかなり変更することを余儀なくされました。

 色々とシミュレーションした結果、「ロックの詩人」の展示資料については、『若者のすべて』草稿ノートを中心に、『志村正彦全詩集』『若者のすべて』の楽譜等を展示ケース内に置き、壁面の解説パネルを充実させて、補足的な説明を行うことにしました。(『若者のすべて』草稿の展示意図については、項目を独立させて書く予定です)

 「フジファブリックの10年」の展示については、Ⅰ部「志村正彦クロニクル」を継続する形で、
 11.  (志村正彦)没後の反響・出来事  [2010-2014]
というコーナーを作り、志村正彦愛用の黒いハット(今回のポスターの写真で被っているもの)、ライブで使っていたケーブルを入れたアルミケース、『Talking Rock!』等の志村追悼特集号、『FAB BOX』、『SINGLES 2004-2009』、『FAB BOXⅡ』等の没後リリース作品、モテキ関連のパンフレットなどを縦長の展示ケースに陳列しました。最も最近の動向を伝えるものとして、4月13日の『Live at 富士五湖文化センター』上映會のポスターも展示しました。

 次のコーナーでは、
  12.   2010~2014年  【3人編成のフジファブリック】
という展示パネルを作り、金澤ダイスケ・加藤慎一・山内総一郎の3人編成のフジファブリックの最新作『LIFE』のポスターを壁面に飾りました。(2010年以降のフジファブリックのCD、DVD等も用意していたのですが、展示ケースが足りないという物理的理由により叶いませんでした)
 本当に少ないスペースで申し訳ありませんでしたが、現在のフジファブリックについても何らかの形で展示したいと当初から考えていました。

2014年8月2日土曜日

展示室1のアルバム [展示をふりかえって 6]

展示室1へと並ぶ列(1日目)


入口すぐの壁面(志村正彦略歴とポスターの元写真)

展示室1中央(1日目)

赤池宏己先生による肖像画・他

柴宮夏希さんによる1stCD原画案・他

2009年の写真・パネル

幼少期の資料

志村正彦在籍時フジファブリックの全作品と彼の著書等


愛用のギター(高校時代に購入したレスポール他)
会場で飾られた花


2014年7月27日日曜日

初公開の写真 [展示をふりかえって 5]

 展示室1では、志村正彦の生涯をふりかえるために、彼自身の言葉を「志村語録」というパネルにして展示しました。出典は、展示室2の分を含めて、著書『東京、音楽、ロックンロール 完全版』、雑誌『音楽と人』『Talking Rock!』『H』等です。株式会社トーキングロック、株式会社 音楽と人、株式会社ロッキング・オンからは事前に許諾を得ました。どの社もとても協力的で、ありがたかったです。志村正彦、フジファブリックに対するリスペクトが感じられました。

 語録は、志村正彦の人生と作品を解き明かす鍵となるような言葉を選びましたが、スペースの制約から、当初予定の半分ほどの数となりました。また、アビーロードスタジオでの出来事や本人が語った4枚のアルバムのテーマについては解説パネルも作りました。

  写真については、志村家所蔵の写真、所属事務所の株式会社ソニー・ミュージックアーティスツ、(株)ロフトプロジェクトからご提供のものを使用でき、「クロニクル」に相応しい質と量が備わりました。改めて感謝を申し上げます。

 初公開の写真も含まれていました。中でも、2009年12月23日の日付の写真、志村さんの笑顔の表情を伝える写真2点はこれまで見ることのできなかったものでした。(小さな写真をスキャンしてかなり拡大したもので、画像が粗いものでしたが、ご了承ください)

 写真の中の志村正彦はほんとうに楽しそうに笑っています。私たち企画担当者は、写真の快活な笑顔から、これからの活動に向けた彼の夢や希望のようなものも感じました。明くる年2010年には、新アルバムや「フジフジ富士Q」ライブが予定され、志村正彦、フジファブリックにとって大きな大きな飛躍の年となるはずでした。しかし、その翌日24日に、原因不明の身体の異変で突然、29年の生涯が閉じられてしまいました。

 この写真はプライベートなものであり、ご家族にとってはとても大切なものです。ですが、 私たちは、その姿を彼を愛するファンの方々に見ていただきたいと考え、是非にとお願いしました。そして、経緯や細かい説明を省いて、「2009年12月23日」というクレジットのみで展示することになりました。

 展示室1は、この写真を最後の展示にする構成としました。
 2009年12月24日に志村正彦の人生は閉じられましたが、その日以降も、志村正彦の作品は現在そして未来の聴き手に永遠に開かれ、存在し続けます。そのような祈りを込めました。

2014年7月26日土曜日

ご両親・ご友人・恩師の言葉 [展示をふりかえって 4]

 展示室1には、ご両親、ご友人、恩師、の5人の方々から寄せていただいた思い出話をパネルにして展示しました。これまで発言されることはなかった方々の証言が含まれます。来場者も熱心に一つひとつ読んでいました。今回はその一部を紹介させていただきます。

 小学校以来の友人で「富士ファブリック」のメンバーだった渡辺平蔵さんは、「正彦の歌を聴いていると、幼い頃から一緒に過ごした風景を感じることがよくあります」と述べ、「正彦は『努力と研究の天才』だったと思います」「研究の対象を見つける感性があって、自分でそれをとことん研究して消化していきます」「音楽CDをたくさん持っていていましたし、その他にも、本、映画、ドラマからも何かを得て、自分のものとして取り込んでいました」と語ってくださいました。
 同じく友人で「富士ファブリック」のメンバー小俣梓司(おまたしんじ)さんは、「普通の男子高校生が普通に遊んでいる感じ」と高校時代のバンド活動について触れ、「誰しもが若かりし頃、共通の趣味を媒介としてその趣味以外のことを含め、人と友情を築いていくのと同じように、私たちは『富士ファブリック』というものを媒介として普通に、そしてただ無邪気に遊んでいたように思えます」とふりかえり、「私にとってその時間は今でもとてもかけがえのない大切なものです」と書いてくださいました。
 富士吉田そして東京で、少年期から青年期にかけての時間を共有した友にしか見えない志村さんの姿があったのでしょう。志村さんに対する深い理解と愛情が込められたコメントでした。志村さんが「幼馴染み」バンドへのあこがれを繰り返し述べてきたこともうなずけます。

 高校3年生の時のクラス担任の赤池宏己先生は、「多くを語らないが、はにかんだ笑顔とくっきりと澄んだまなざしに、意志の強さを感じました」と志村さんを描き、三者面談の際に「卒業後の進路を打ち明けられたとき、それを否定する理由はありませんでした。その時の彼はさすがに神妙な面持ちでしたが、担任の立場よりも私個人の思いとして、夢を追いかけてほしいと願ったことを覚えています。」と書いてくださいました。
 自身も美術の教師であり、絵画を創作している赤池先生は、音楽の道を進む志村さんに対して、芸術の道に生きることの厳しさを乗り越えていく意志と力を感じとっていたのでしょう。

 母妙子さんに語っていただいた正彦さんの上京前の様子、自炊のために料理を習ったり、家の中や近くの道、富士吉田の街や自然を慈しむように眺めていたりした姿からは、志を抱いて故郷を後にする決意と、家族や周囲への愛情が表れていました。ご家族がそれを静かに見守っていた様子も感じられました。
 父清春さんは、高校入学の頃、甲府の岡島百貨店でギターを初めて購入したときのエピソードをお話ししてくださいました。正彦さんがアルバイト代で払うと買ってきたギブソンのレスポールスペシャル。本人は3万8000円と言っていたが、後になって月々3万8000円の10回払いだったと知ったこと、約束通りアルバイトをして払いきったこと、それだけ音楽に真剣だったのだろうとふりかえっていらっしゃいました。

 志村さんを身近で見ていらっしゃたご両親、ご友人や恩師の言葉は、プロのミュージシャンになる以前の志村正彦を浮かび上がらせる重要な証言でした。ご多忙のところ、貴重な言葉を寄せていただき、この場をお借りして改めて、感謝を申し上げます。

2014年7月25日金曜日

志村正彦クロニクル [展示をふりかえって 3]

 展示室1は、「クロニクル」と題した解説パネルによって、志村正彦の生涯を10の時期に分けて展示しました。志村正彦、フジファブリックに対する予備知識がない方にとっても分かりやすいものとなるように工夫しました。生涯の区分と各々の名称は次の通りです。

 1.誕生・幼少年期 【クロニクル1】
 2.中学・高校時代  【クロニクル2】
 3.上京・アマチュア時代  【クロニクル3】
 4.富士ファブリック[2000-2001] 【クロニクル4】
 5.フジファブリック[2001-2002] 【クロニクル5】
   6.メンバーの過渡期 [2002-2003]【クロニクル6】
   7.2004年・メジャーデビュー 【クロニクル7】 

 8.2005年-2006年  【クロニクル8】
   9.2007年-2008年 【クロニクル9】
  10.2009年・急逝 【クロニクル10】

 壁面を中心に、志村さんの肖像写真やフジファブリックのライブ写真、富士吉田ゆかりの場の写真など50点程、ご友人・恩師・ご両親のコメントを掲載したパネル5点、「志村語録」と名づけた彼自身の言葉を引用したパネル20点程、その他キャプションを掲示しました。志村正彦の生涯を簡潔にしかし丁寧にたどるという目的のためには、あの位の数量のパネルや写真は必要だと考えていました。
 (来場された皆さまに一字一句丁寧にご覧いただいたことで、結果として、一人ひとりの閲覧時間が私たちの想定を超え、なかなか前に進めない、入場できないという状況になり、ご迷惑をおかけしました。そのあたりの「読み」が甘かったと痛感しました。実行委員会の代表者は山梨県立文学館で常設展や「生誕百年記念 芥川龍之介展」等の企画展をいくつか担当しましたが、来場者がこれだけ熱心に時間をかけて一つ一つの資料、パネル等に接する経験はほとんどありませんでした。来場された皆さまの志村正彦、フジファブリックに対する想いの深さによって、「ロックの詩人 志村正彦展」は希有な展示会となったように思います)                    

 部屋の中央にはガラスの展示ケース4台を配置し(1日目はそのうち2台を壁面につけていましたが、スムーズな動線とするために、2日目に中央に移動しました)。
 ケース1に幼少年期の資料(保育園卒園時の手形や本人の言葉、小学校時代の学級通信、手製のパズル、応援歌とするために作詞した「学園天国」の替え歌など)、ケース2に新宿ロフト時代の資料(赤富士通信、本人手書きのライブアンケート用紙、自筆サインなど)、ケース3にメジャー時代の資料(彼が愛用した「SHIMURA」と記入されたマイク、「ダンス2000」の自筆歌詞カード、本人が実際に使ったオリジナルピックなど)、そしてケース4には志村正彦在籍時のフジファブリックのCD・DVD等の全作品(一部のシングルを除く)、著書『東京、音楽、ロックンロール』や楽譜を展示しました。

 壁面には、高校3年時の担任、赤池宏己先生による18歳の志村正彦の肖像画、柴宮夏希さんが描いたCD『フジファブリック』ジャケット用の別案の原画、四人囃子との対バンライブのグッズの「手ぬぐい」も額に入れて飾りました。
 入り口から入って右側のスペースには、愛用のギター3本(高校時代、甲府の岡島百貨店にあった新星堂ロックイン甲府店で購入したレスポール・スペシャルなど)を並べて展示しました。
 なお、出口近くのモニターで、フジファブリックのドキュメンタリー映像を流したのですが、あまりにも混雑してしまったたために、途中で停止させていただきました。(ご覧になりたかった人にはお詫び申し上げます)

2014年7月21日月曜日

広報とポスター [展示をふりかえって 2]

 「ロックの詩人 志村正彦展」は、初公開の資料、写真、コメントなどが含まれていましたが、そのことを含め、展示内容の詳細を事前に伝えることはあえてしませんでした。当日、いらっしゃる方々の出会いと発見を大切にしたいと思いました。「初公開」という話題性で来場者を増やすのは、何となく、志村正彦展らしくないなという気持ちもありました。

 広報についても、基本的にはこのwebを通して行うだけでした。「偶景web」の読者を中心に、SNSを通して少しずつ広まっていく感じでした。そのような流れの中で、ほんとうに思いがけなく、フジファブリックの公式サイトとナタリーでご紹介いただきました。とてもありがたく、恐縮しました。公式webのアクセス数、フォーラムの申込数共に、非常な勢いで伸びてきました。
 そのことは励みともなりましたが、同時に、これは大変なことになってきたな、何としてでも質の高いものにしなければならないという重圧もかかりました。それでもプレッシャーに負けることなく、一つひとつの作業を進めていくことを心がけました。

 作成したポスターについては、たくさんの方々のご協力を得て、県内中心に100枚ほど掲示することができました。富士吉田のいくつものゆかりの場所、東京のゆかりの場所、特に、東高円寺ロサンゼルスクラブと新宿ロフトにも貼っていただいたことには感激しました。宮本慶香さんが撮影し、「Talking Rock!」の吉川尚宏さんに提供していただいた写真をもとに、小林春生(BOSCO)さんにデザインしていただいたあのポスターが非常に好評だったことは、とてもうれしかったです。

 こうしてふりかえってみると、多くの方々が、中には私たちの知らないところで、ご協力、ご支援くださったことに感謝の気持ちが湧いてきます。

2014年7月20日日曜日

展示室1の構成 [展示をふりかえって 1]

 今回から数回に分けて、「ロックの詩人 志村正彦展」をご覧になられなかった人のためには概要を説明し、また、ご覧になられた人に対しては展示の意図や準備の過程を伝えたいと思っております。志村正彦フォーラムについても同様に記します。
 まずはじめに、準備段階をふりかえり、展示の基本テーマや構成について説明します。

 展示室1は、「志村正彦クロニクル」というテーマで、1980年に生まれてから2009年に亡くなるまでの生涯を10の時期に分けて、壁面にパネルと写真、室内中央の4つのケースに自筆のものを含む重要資料、入り口近くのスペースに愛用ギター3本を展示しました。

 会場については、昨年12月に申し込んだ時点で、すでに一番大きな会場は予約済みでしたので、あの2室しか借りられませんでした。時期は彼の誕生日の週末にすることを決めていたので、日程の変更は検討しませんでした。(あの時点で来場者数が予測できれば、大きな部屋を借りられる別の日を検討すべきだったのでしょうが。これが反省点となりました)

 会場の寸法から、120センチ幅の移動式展示壁が15ユニット設置できる計算となり、そこから簡単な図面を描いて、パネルや写真の配置や寸法を検討しました。その結果、作成するパネルや写真額のサイズをA4に統一することにしました(最終的にはより小さいパネルやキャプションも作りましたが)。A4サイズに文字を印刷するため、できるだけ簡潔な表現にまとめ、1枚あたりの字数を少なくして、文字を大きくしようとしましたが、それでも限界があり、文字は若干小さくなってしまいました。(読みにくかったというご指摘もあり、申し訳ありませんでした)

 また、会場で借りることのできるガラスの展示ケースも5つという制約があり、展示室1では最大で4つしか設置できない見通しになりました。(結局、展示室2にも2つのケースが必要となり、不足した分は別途用意しました)物理的な空間の制約から、自筆資料などの貴重な資料の点数も自ずから限られることになりました。

 私たちは非営利の自発的組織であり、人員はボランティアによって、予算は有志によって集めました。したがって、人員・予算共に限界があり、会場や展示壁・ケース等も借り物なので、物理的制約があります。
 しかし、限界と制約があるからこそ、何かを少しでも作り上げていこうというのが、私たちの考え方でした。そのような条件のもとで、来場していただく方々に少しでも満足のいく展示にするのが、最大の課題となりました。

2014年7月16日水曜日

「志村正彦」「フジファブリック」という存在の大きさ

 「ロックの詩人 志村正彦展」は2日間で1150人程の来場者を迎え、「志村正彦フォーラム」も200席がほぼ満席という大盛況のうちに終了いたしました。これもご来場いただいた皆様、ご協力いただいた皆様のおかげと、深く感謝しております。

 この2日間を通して、 あらためて「志村正彦」「フジファブリック」という存在の大きさと、彼に寄せる多くの方々の想いの強さを感じました。

 今後、準備ができ次第、簡単ではありますが、展示、フォーラムの内容を御報告していきたいと考えています。

 また、展示室、フォーラムで、3種類のアンケートをご用意いたしましたが、当日時間がなく書けなかったが届けたいという声をいただいております。そういう方は、フォーラム申し込みと同じアドレスにお送りいただければと存じます。その際「志村正彦へのメッセージ」「展示」「フォーラム」のどれかを記載していただければ幸いです。よろしくお願いします。

2014年7月14日月曜日

「ロックの詩人 志村正彦展」終了しました。

 日があらたまってしましましたが、昨日「ロックの詩人 志村正彦展」終了いたしました。二日間にわたりたくさんの皆様にご来場いただき、本当にありがとうございました。

  小さな会場でしたので、入室まで2時間以上お待ちいただくような状態で、大変申し訳なく思っております。にもかかわらず、ご来場の皆様がマナーよく対応してくださり、心より感謝しております。今回の内容については、またあらためてレポートを掲載していきますので、ご覧になって下さい。
 

  最後になってしまいましたが、今回の展示・フォーラムに際して、志村正彦さんのご家族をはじめ、たくさんの皆様にご協力をいただきました。この場をお借りしてあらためて御礼申し上げます。

2014年7月12日土曜日

「ロックの詩人 志村正彦展」1日目終了

「ロックの詩人 志村正彦展」1日目が終了しました。入場数は650人程度。皆様、一つひとつの資料、写真、パネル等を時間をかけて丁寧にご覧いただきました。そのため、入場までに1,2時間かかるという状況になり、ご迷惑をおかけしました。館内は冷房が効いていますが、水分補給にご注意ください。
本日の終了後、展示ケース等の配置換えを行い、動線を工夫しました。入場の仕方も改善したいと考えております。それでも明日も混雑が予想されますので、あらかじめご了承ください。
ご来場される方は、道中気をつけてお越しください。

フォーラム、キャンセル待ち等の対応について

「志村正彦フォーラム」の受付を終了しましてから、立ち見、キャンセル待ち、当日受付などのお申し出が多数寄せられております。熱心な皆様には大変申し訳ありませんが、今回は会場も混雑が予想され、そのような対応はできません。また、本日からはメールにお返事することもできませんので、あしからずご了承下さい。

いよいよ本日開催です

 「ロックの詩人 志村正彦展」、いよいよ本日12時より開催です。
 ここに至るまで、数多くの皆様にお世話になりました。心から感謝しております。
 今日と明日、会場に足を運んでくださる皆様、台風一過、甲府は暑いと思われます。お体には充分気をつけて、志村正彦展を楽しんでいっていただければ、たいへんうれしいです。
 では、会場でお待ちしております。

2014年7月10日木曜日

志村正彦の誕生日に

今日、7月10日は志村正彦の誕生日。彼が元気であれば、34歳を迎える日でした。ネットでも誕生を祝う言葉が相次いでいました。
そのような日に、私たちはずっと展示のパネルを作成していましたが、先ほどようやく完成しました。明日から明後日の午前までの一日半で、資料・楽器や写真・パネルの飾り付けをします。

心配していた台風も明日の朝には通り過ぎるようで、「TAIFU」の歌詞の一節「想像に乗ってゆけ もっと足早に先へ進め」と、志村さんに押されるようにして、何とか、12日と13日の志村正彦展を成功させたいと思います。

皆様のご来場をお待ちしております。

2014年7月7日月曜日

2014年7月6日日曜日

「志村正彦フォーラム 」参加者の皆さんへ


先ほど詳細について一斉にメールを送信しました。メールが届かない方は、お手数ですが申し込みしたのと同じアドレスにお知らせください。

2014年7月4日金曜日

「志村正彦フォーラム」の受付を終了しました

  おかげさまで「志村正彦フォーラム」は当初の予定人数に達しましたので、申し込みを締め切らせていただきます。多数のお申し込みありがとうございました。

  なお、お申し込みいただいた方には、近日中に詳細をメールでお送りいたします。

この場を借りてご連絡します

 昨日7月3日午前10時頃、「志村正彦フォーラム」の受付完了メールが届かない旨お知らせいただいた方にご連絡いたします。7月1日に確かに受付いたしております。その際にも、昨日もこちらから返信のメール、また昨日はご確認のメールを差し上げましたが、どうもそちらには届かないようなので、この欄を使ってご連絡させていただいています。
 近日中に詳細のメールをお送りする予定ですので、パソコンのメールアドレス、もしくはフリーメールなどをご利用になって、もう一度実行委員会までご連絡いただければと存じます。よろしくお願いします。
 

2014年7月3日木曜日

観光情報

 甲府の周辺観光やグルメ情報も知りたいというお問い合わせが来ましたので、簡単ですがお知らせします。

 山梨県立図書館のある甲府駅北口周辺は以前に書きましたのでそちらをご覧ください。 駅から少し離れますが、山梨県立美術館 、山梨県立文学館(どちらも芸術の森公園内に建っています)も興味のある方にはお勧めです。
 

 美術館はミレーなどバルビゾン派のコレクションがたいへん充実しており、県内外からの来場者が多いです。文学館は芥川龍之介のコーナーのほか、太宰治、樋口一葉、飯田蛇笏・龍太など山梨ゆかりの文学者の展示があります。公園の庭にはさまざまな彫刻、モニュメントなども観られます。
  甲府駅南口からバスが出ています。15分くらいです。

 甲府、山梨のグルメというと「ほうとう」とB1グランプリを獲得した「鳥モツ」でしょうか。
「ほうとう」はゆでてない平打ちの うどんを野菜と一緒にみそで煮込んだもので、家庭料理なので、山梨県民はあまりお店で食べることはありません。 甲府駅の北口にも南口にも「ほうとう」を食べられる店はあります。
 鳥モツは蕎麦屋さんで食べられます。これも駅周辺にいくつかあります。

2014年6月29日日曜日

フジファブリックの公式サイト

「ロックの詩人 志村正彦展」まであと2週間を切りました。

 27日にはフジファブリックの公式サイトhttp://www.fujifabric.com/info/でご紹介いただきました。感謝を申し上げます。たくさんの方がこのホームページにもアクセスしてくれました。

 なお、フォーラムについては現在までにかなりの申し込みがありますが、まだ空きがありますのでご参加を検討されている方はお早めにお申し込みください。

2014年6月25日水曜日

駐車場について

お車で来られる方に駐車場のご案内です。

 山梨県立図書館にはかなり広い駐車場があります。図書館利用者は駐車券をカウンターに持っていけば、1時間は無料になります。その後は30分ごとに一般車は150円、中型車は600円、大型車750円がかかります。 詳しくは山梨県立図書館のホームページをご覧ください。

 フォーラム参加等で長時間お停めになる方は、図書館周辺の駐車場を利用される方がお安い場合もあります。一日で上限が、700円~1200円くらいに決まっているところも多くあります。週末なので、駅に近いところは早めに埋まってしまうかもしれませんが、少し離れれば見つかるかと思います。南口方面の駐車場でも駅ビルを通り抜ければ、比較的近いです。

2014年6月23日月曜日

フォーラム引き続き募集中です

 このところフォーラムのお申し込みの際に「まだ間に合いましたら」というメッセージをいただくことが多くなってきました。今のところまだ大丈夫ですので、ぜひご参加ください。

 かなり遠方からの参加申し込みもあり、本当にありがたく思うと同時に、ご期待に添うべく少しでもよいものにしようと頑張っています。参加者の方にはささやかですがプレゼントも用意しました。

 志村正彦さん、フジファブリックの大ファンという方ばかりでなく、あまり知らないけど興味があるという方も歓迎します。これを機に彼の作った素晴らしい歌の世界に出会っていただければと思います。

  なお、フォーラムのお申し込みを確認した場合は、一両日中に受付完了のメールをお送りしています。もし、申し込んだのにメールが届かないという方がいましたら、申し訳ありませんが、再度お申し込みをお願いします。

2014年6月22日日曜日

展示について(1)

 これからこの欄で、「ロックの詩人 志村正彦展」の展示やフォーラムの内容についても少しずつお知らせしていきたいと思います。

 まず展示についてですが、志村さんのご家族からお借りしたゆかりの品や楽器、また写真や友人たちのコメント、解説文などを中心に展示します。

 特に写真については、フジファブリックの所属事務所であるソニー・ミュージックアーティスツをはじめ、関係者の皆さんのご協力によりお借りすることができました。中にはたいへん貴重な写真も含まれています。様々な年代の志村正彦さんとフジファブリックがご覧いただけます。   つづく

2014年6月20日金曜日

ポスターとデザイン

 日曜日、志村正彦展のポスターとフライヤーが完成し、早速、掲示していただくために会場の山梨県立図書館に持参しました。今日、図書館に寄る機会があり、実際にどのように掲示してあるのか見ることができました。

 駐車場の方からの入口、サブエントランス近くの場所、NHK連続テレビ小説『花子とアン』(甲府出身の「赤毛のアン」翻訳家、村岡花子の物語)のポスターの下に『ロックの詩人 志村正彦展』のポスターが貼られていました。ヒロインの吉高由里子のにこやかな表情の真下で、志村正彦の深い眼差しがこちらを見つめているという、かなり不思議な取り合わせが面白く、目を引きます。
 正面のエントランスから入って右側にある大きなポスターコーナーでは、一番上の高い位置に掲示されています。館内を通る人々を上の方から静かに見まもっているかのようです。
 二つとも、とても目立つ場所に貼っていただいたようで、県立図書館と交流コーナーのスタッフに感謝を申し上げます。

 ポスターはB2サイズ、質感と重さにもこだわった紙を使っています。このwebのトップに置いてある画像はやはり画像であり、実物のポスターのマテリアルとしての質感を再現することはできません。
 デザイナーの小林春生氏は、「フジファブリック」の「ファブリック」のイメージを引用して、タイトルの「ロック」は「布地文字」、下部の臙脂色帯も「布地のテクスチャー」(音響機器のイコライザーを想起させる模様が微妙についている織り柄)を施したと述べていらっしゃいます。タイポグラフィーに工夫を重ねる小林氏ならではの秀逸なデザインはぜひ実物で味わっていただきたいと思います。
 山梨に住む志村正彦、フジファブリックのファンには、甲府駅近くに出かける機会があったらぜひ図書館に行って見ていただけたらと思います。フライヤーは数十部置いてあるので、ご自由にお取りください。
 

  なお、富士吉田でも志村さんの同級生たちのご協力によってゆかりの場所で掲示してもらうことになっています。色々な図書館等にも発送しているところです。数は少ないですが、山梨県内のどこかで思いがけなく、このポスターやフライヤーに出会うことになるかもしれません。

 ポスターが現実に貼られているのを見ると、いよいよだなという実感が湧いてきます。


 

2014年6月17日火曜日

甲府駅の北口界隈 [7]

  山梨県立図書館のある甲府駅北口界隈は近年整備され、様々なイベントが開かれるようになった地域です。

 今回の「ロックの詩人 志村正彦展」の会場である図書館の隣には、丹下健三が設計した山梨文化会館があります。志村正彦さんの記事を掲載してくれるのでファンのみなさまもご存じの 山梨日日新聞 (通称サンニチ) などを含む山日YBSグループの本社ビルです。2階にはD&DEPARTMENT YAMANASHI があり、山梨のしゃれた物産やカフェがあります。

 今、朝の連続テレビ小説「花子とアン」(甲府出身で『赤毛のアン』の翻訳で知られる村岡花子を主人公とするドラマ)でおなじみのNHK甲府放送局もすぐ近くにあります。

 また図書館と道路をはさんで向かい側にある北口のよっちゃばれ(集まれというような意味です)広場には明治時代の小学校であった藤村記念館という洋風建築も移築されていて見学できます。

 甲府駅のすぐ東側には舞鶴城公園(甲府城跡)があります。建物などは近年建てられた物ですが、石垣は古い物がそのまま残っています。

  武田信玄ゆかりの武田神社(武田氏館跡に建てられており、武田信玄を祭神とする)へは甲府駅北口からバスが出ています。バスに乗ると10分ほどですが、ゆるやかな上り坂を歩いていくと30分以上はかかります。

 今回は甲府駅北口界隈のご紹介ですが、せっかくお越しになるので、甲府観光も楽しんでいってください。

2014年6月15日日曜日

甲府・富士吉田間の交通 [6]

 せっかく甲府にまで行くのだから、志村正彦さんの故郷、富士吉田にも行きたいという方もいらっしゃるかもしれません。あるいは、富士吉田に行ってから甲府へという場合もあるでしょう。

 甲府・富士吉田間は富士急のバスが運行しています。1時間に1本か2本くらい出ていて、道路事情にもよりますが、1時間15分~20分くらいで到着予定です。料金は片道1570円です。

多くは甲府駅南口のバスターミナルに発着しますが、中には北口発着のバスもあるので、時刻表や詳細は富士急バスのホームページでご確認ください。
http://bus.fujikyu.co.jp/line/jikokuhyo/03.html )
山梨県立図書館は甲府駅のすぐ近くにあります。

 電車で行く場合は、JR中央線で大月駅まで行き、そこで富士急行線に乗り換えて富士吉田方面に向かう方法もあります。富士吉田から甲府に来る場合は、その逆の経路です。

2014年6月14日土曜日

交通機関の料金 [5]


 JR中央本線新宿~甲府間の運賃は通常片道2268円、特急を使えばそのほかに特急料金が1340円かかります。

 お得な切符としてあずさ回数券(6枚セット)が17280円です。乗車料金、特急料金、指定席料金が含まれます。3人でしたら使いやすいです。(一人あたり往復5760円)

 中央線料金回数券(4枚セット)という特急料金のみの回数券もあるようです。

 遠くから来られる場合は、週末パス(2日間フリーエリア乗り放題、特急料金は別)、8730円というのがあるそうです。エリアはかなり広く新潟、仙台、長野、松本、千葉辺りまで使えますが、使用の前日までに購入しなければなりません。

 以上、JRについてはJR東日本のホームページで確認してください。

 高速バスの新宿甲府線は片道2000円です。2人の場合は、4枚綴りの回数券が7200円(一人あたり往復3600円)です。

  遠距離の高速バスについてはいろいろな運行会社のものがあり、料金もだいぶ違うようです。

フォーラムの進め方 [4]

おかげさまで「志村正彦フォーラム」に2日間で20人ほどのお申し込みをいただいております。遠方の方からの申し込みもあり、ほんとうにありがとうございます。
その中で「みんなで語り合う」という点についてご質問がありましたが、参加者全員に話を求めるという進め方は考えておりません。語りたいことがあれば、自由に発言していただくという意味です。説明不足で申しわけありませんでした。よろしくお願いいたします。

2014年6月12日木曜日

フォーラムの申込

いよいよ、「志村正彦展」まで、あと一月となりました。

7月13日(日)14:00~16:00、ゆかりの人を招いて、志村正彦・フジファブリックの作品について自由に語り合うフォーラムを開催します。参加は無料、定員は200名です。その申込方法について説明します。

志村正彦フォーラム応募アドレス
 
希望者は上記のメールアドレス宛(画像なので、mの字からpの字まで、文字に直してください)に、件名に「志村正彦フォーラム」、文面に次の事項を記入してお送りください。

①氏名(ふりがな)②居住地の都道府県名③参加希望者の数。 (その他、実行委員会にご要望ご質問等があればお書きください。)

送信された情報は、フォーラム受付の際にだけ使わせていただきます。申込の完了、その他のフォーラムに関する情報については、メールで連絡いたします。
よろしくお願い申し上げます。

2014年6月11日水曜日

アクセスについて [3]

 甲府は他県からお越しになるには結構遠いですが、それでもお越しいただける方のためにアクセスをご紹介します。

 山梨県立図書館(https://www.lib.pref.yamanashi.jp)は甲府駅北口徒歩3分です。

 
 JRで甲府駅にお越しの方は改札口(一つだけです)を出て右手(北側)に進み、そのまま道路にかかる橋(ペデストリアンデッキ) を渡って右手の階段を下り、少し進むとすぐ左手に図書館の白を基調としたモダンな建物があります。

 JRは中央本線と身延線が通っています。中央線だと新宿から特急あずさ、かいじなどを利用して1時間30~40分ほど。松本から同じく特急を使って1時間10分~20分ほどです(名古屋からだと塩尻で乗り換えて4時間くらいです)。身延線は静岡から急行ふじかわで2時間20~30分で到着しますが、急行は2時間に一本の割合です。

 そのほか中央高速バスが利用できます。新宿からは30分に一本の割合で出ており、運行時間2時間10分(道路の混雑によりますが)で甲府につきます。そのほか、甲府静岡間、甲府成田空港間、甲府羽田空港間、甲府名古屋間、甲府京都大阪間などの路線もありますが、いずれも本数は少ないです。

料金などはわかる範囲でまたお知らせします。

2014年6月9日月曜日

フライヤーの写真とデザイン [2]

 このweb上にアップしている「ロックの詩人 志村正彦展」のフライヤーの写真は「Talking Rock! 2010年7月号」の102頁に掲載されたものです。(EMIの今村圭介ディレクターが志村さんについて語った貴重な記事です)

 ポスターとフライヤーに使う写真を探しているうちに、志村さんの深い表情とまなざし、そして穏やかな美しさをとらえたこの写真に強くひかれ、Talking Rock! 誌の吉川尚宏編集長、カメラマンの宮本慶香さんに使わせていただきたいとお願いいたしました。お二人とも志村正彦さんには「強い想い」があるということで、快く許諾をいただきました。

 また、デザインをしていただいたBOSCOの小林春生さんは、色彩感が豊かで、タイポグラフィにも造詣が深く、山梨で最も活躍されているデザイナーです。小林さんにも快くご協力いただきました。

 この場をお借りして三人に感謝するとともに、みなさんにもぜひこのフライヤーの志村正彦さんに出会っていただきたいと願っております。

ご挨拶 [1]

初めまして、「ロックの詩人 志村正彦展」実行委員会です。

実行委員会が主催して、甲府市【富士吉田市ではありません。ご注意ください】の山梨県立図書館を会場に、7月12日・13日に展示、13日にフォーラムを開催します。

この催しは、志村正彦氏のご家族の全面的なご支援とご協力を得て、実現することになりました。この場をお借りして、あらためて感謝を申し上げます。

本日からこの欄に情報を順次アップしていきますので、ご覧ください。
なお、このwebのリンクは自由です。情報をより多くの人に伝えていただければありがたいです。
よろしくお願い申し上げます。  (14日追記)