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2014年10月20日月曜日

倉辺洋介さんの発表「志村正彦とLOST DECADES」[フォーラムをふりかえって 4]

 新宿LOFTの樋口さんに続いて、倉辺洋介さんが、同世代のファンの立場から、パワーポイントで資料をスクリーンに映しながら、「志村正彦とLOST DECADES」 と題する発表をしてくださいました。
 ファーストアルバムの頃にファンになり、志村さんの曲に励まされてきたという倉辺さんのお話は、志村さんと同じ時代を生きた世代の視点から、時代と歌詞との関係を考察するものでした。発表の要旨は次の通りです。


 志村君はバブル崩壊後に少年期を過ごし、高校卒業後上京した頃には音楽シーンは縮小する傾向にあり、メジャーデビューの頃には景気は少し持ち直したものの、決して右肩上がりではない、明日が今日よりいいとは限らない時代を生きてきました。そんな中、不安を抱き、ある種割り切った感覚を持ちながらも、悟ってしまっているのでもあきらめきっているのではなく、もがいている。そういう世代で共有する感覚があるという仮説のもとに志村君の歌詞を見ていこうというのがこの発表の試みです。

 今日も上映された富士五湖文化センターでのライブでも、普通の大人になりたくなかったから始めた音楽活動なのに、不安視している自分がいるということを志村君自身が述べていますが、やはり志村君自身も時代の不安感、取り残されていくような焦燥感を抱えていたのだと思います。

 今回は、このライブの後、リーマンョックがあり、「派遣村」などということばも聞かれた激動の時代に出されたアルバム「CHRONICLE」を中心に見ていきたいと思います。すると、「描いていた夢に近づけてるのかと日々悩むのであります」(「クロニクル」)、「なりたかった大人になれたのか悩む」(「タイムマシン」)など富士吉田凱旋ライブの夢を達成したにもかかわらずまだ悩んでいる志村君がいる。「明日になればきっと良くなるなんて希望持てれるものならばとっくに持ってるよ」(「Clock」)はまさに先程述べた明日が今日よりいいとは限らないという感覚ですし、「僕はなんで大事なところ間違えて膨大な問題ばかりを抱えて」(「ないものねだり」)などの自分を卑下してしまったりする歌詞が見られます。

 しかし、一方で単純にあきらめているかというとそうではなくて、「折れちゃいそうな心だけど君からもらった心がある」(「ルーティーン」「CHRONICLE」とほぼ同時期に発表された)、「だいたいそうだ なるべくそうだ 後悔だけはしたくないのです」(「タイムマシーン」)、「何かを始めるのには何かを捨てなきゃな 割り切れないことばかりです 僕らは今を必死にもがいて」(「エイプリル」)などには、絶望しないでストイックに向き合う志村君の姿があると思います。

 こう言うと、「CHRONICLE」は異質だからという指摘もありそうですが、このような目で見てみると、ほかのアルバムの楽曲にもそのような面は見られます。例えば、「ダンス2000」はあんなにノリのよいダンスミュージックなのにサビで「いや しかし なぜに」というような歌詞が登場したり、「桜の季節」では真正面から桜の花を歌うのではなくて「桜の季節過ぎたら」「桜が枯れた頃」となっていたりします。しかし「心に決めたよ」と決意を秘めて立っている。


 また「悲しくたってさ 夏は簡単に終わらないのさ」(「線香花火」)のようにあきらめない。他の曲にも前向きに何かをつかみ取ろうと追いかける、走るなどのモチーフが多く見られます。「陽炎」も「きっと今ではなくなったものもたくさんあるだろう」という喪失感がありますが、「窓からそっと手を出して」からあとには一歩踏み出そうという前向きさが感じられます。

  このように18歳で一人で上京し不安を抱き、下積みの苦労をしながらも、あきらめず、進もうとして紡いできた志村君の歌詞には、不安や焦燥を抱えながらもストイックに前向きにもがいているという特徴があり、だからこそ僕らは励まされたり背中を押されたり意志の強さ感じたりするのだと思います。そしてそれが今日のテーマである「ロックの詩人」志村正彦の魅力であると思います。


 倉辺さんの発表は時代背景を丁寧に追って、志村さんの楽曲と時代を結びつける新しい視点を与えてくれました。同世代の聴き手ならではの実感がこもっていて説得力がありました。

2014年10月6日月曜日

新宿LOFT樋口寛子さんのお話 [フォーラムをふりかえって 3]

 志村正彦さんとご親交のあった方々からのコメントの発表に引き続いて、志村さんをインディーズデビュー以前からよく知る新宿LOFTの樋口寛子さん、志村さんのファンという立場から倉辺洋介さん、前嶋愛子さん、ウェブロックマガジン「BEEAST」副編集長の鈴木亮介さんに、各々10分から15分ほどお話しをしていただきました。

 樋口さんはロフトプロジェクトの担当者として、インディーズ時代の「アラカルト」「アラモード」の2枚のアルバムの制作に携わった方です。インディーズデビュー前後の志村さんについて、時に会場からの質問にも応じながら、次のようにお話してくださいました。


 「線香花火」と「茜色の夕日」が入ったカセットテープを聴いて、とてもいい曲だなあと思ったのが出会いでした。最初にロフトにライブにやってきた時は、「若いのがやってきたな」という印象でした。

 当時21歳の志村君はふだんは物静かでしたが、ステージにはうれしそうに立っていました。でも、照れなのか、歌もMCもまっすぐにお客さんを見ることができなくて、そのことはライブ終了後に話したことがありました。それが、メジャーデビューの頃には堂々と前を見て歌っていて成長を感じました。

 ロフトレーベルからインディーズのアルバムを2枚出しました。1枚目の時からいきなり売れたわけではなかったのですが、ライブを重ねるたびにどんどんお客さんの数が増えていきました。 志村君の曲は聴けば聴くほど味がある、そんな魅力があるのだと思います。どんどん増えていくお客さんを見て、長くやってくれるバンドになると確信しました。

 アルバムを作る時も志村君の歌詞やメロディーに対して何かを言ったことはありませんでした。「新しい曲ができました」と生まれてくるものをただ信頼して待っていました。
 インディーズのアルバムにはあの当時にしか出せない空気感や初期衝動がパッケージされていて、今でもよく聴くし大好きです。あれを超えるものには出会えていないです。 


 樋口さんのお話からは、志村さんと樋口さんの間にある信頼感が伝わってきました。インディーズ時代のすばらしいアルバムもこの信頼感があってこそ可能になったのだろうとあらためて感じることができました。