新宿LOFTの樋口さんに続いて、倉辺洋介さんが、同世代のファンの立場から、パワーポイントで資料をスクリーンに映しながら、「志村正彦とLOST DECADES」 と題する発表をしてくださいました。
ファーストアルバムの頃にファンになり、志村さんの曲に励まされてきたという倉辺さんのお話は、志村さんと同じ時代を生きた世代の視点から、時代と歌詞との関係を考察するものでした。発表の要旨は次の通りです。
志村君はバブル崩壊後に少年期を過ごし、高校卒業後上京した頃には音楽シーンは縮小する傾向にあり、メジャーデビューの頃には景気は少し持ち直したものの、決して右肩上がりではない、明日が今日よりいいとは限らない時代を生きてきました。そんな中、不安を抱き、ある種割り切った感覚を持ちながらも、悟ってしまっているのでもあきらめきっているのではなく、もがいている。そういう世代で共有する感覚があるという仮説のもとに志村君の歌詞を見ていこうというのがこの発表の試みです。
今日も上映された富士五湖文化センターでのライブでも、普通の大人になりたくなかったから始めた音楽活動なのに、不安視している自分がいるということを志村君自身が述べていますが、やはり志村君自身も時代の不安感、取り残されていくような焦燥感を抱えていたのだと思います。
今回は、このライブの後、リーマンョックがあり、「派遣村」などということばも聞かれた激動の時代に出されたアルバム「CHRONICLE」を中心に見ていきたいと思います。すると、「描いていた夢に近づけてるのかと日々悩むのであります」(「クロニクル」)、「なりたかった大人になれたのか悩む」(「タイムマシン」)など富士吉田凱旋ライブの夢を達成したにもかかわらずまだ悩んでいる志村君がいる。「明日になればきっと良くなるなんて希望持てれるものならばとっくに持ってるよ」(「Clock」)はまさに先程述べた明日が今日よりいいとは限らないという感覚ですし、「僕はなんで大事なところ間違えて膨大な問題ばかりを抱えて」(「ないものねだり」)などの自分を卑下してしまったりする歌詞が見られます。
しかし、一方で単純にあきらめているかというとそうではなくて、「折れちゃいそうな心だけど君からもらった心がある」(「ルーティーン」「CHRONICLE」とほぼ同時期に発表された)、「だいたいそうだ なるべくそうだ 後悔だけはしたくないのです」(「タイムマシーン」)、「何かを始めるのには何かを捨てなきゃな 割り切れないことばかりです 僕らは今を必死にもがいて」(「エイプリル」)などには、絶望しないでストイックに向き合う志村君の姿があると思います。
こう言うと、「CHRONICLE」は異質だからという指摘もありそうですが、このような目で見てみると、ほかのアルバムの楽曲にもそのような面は見られます。例えば、「ダンス2000」はあんなにノリのよいダンスミュージックなのにサビで「いや しかし なぜに」というような歌詞が登場したり、「桜の季節」では真正面から桜の花を歌うのではなくて「桜の季節過ぎたら」「桜が枯れた頃」となっていたりします。しかし「心に決めたよ」と決意を秘めて立っている。
また「悲しくたってさ 夏は簡単に終わらないのさ」(「線香花火」)のようにあきらめない。他の曲にも前向きに何かをつかみ取ろうと追いかける、走るなどのモチーフが多く見られます。「陽炎」も「きっと今ではなくなったものもたくさんあるだろう」という喪失感がありますが、「窓からそっと手を出して」からあとには一歩踏み出そうという前向きさが感じられます。
このように18歳で一人で上京し不安を抱き、下積みの苦労をしながらも、あきらめず、進もうとして紡いできた志村君の歌詞には、不安や焦燥を抱えながらもストイックに前向きにもがいているという特徴があり、だからこそ僕らは励まされたり背中を押されたり意志の強さ感じたりするのだと思います。そしてそれが今日のテーマである「ロックの詩人」志村正彦の魅力であると思います。
倉辺さんの発表は時代背景を丁寧に追って、志村さんの楽曲と時代を結びつける新しい視点を与えてくれました。同世代の聴き手ならではの実感がこもっていて説得力がありました。
「ロックの詩人 志村正彦展」(2014.7.12-13)は、1100人を超える来場者に恵まれ、終了しました。ご来場いただいた方、ご協力いただいた方に感謝を申し上げます。
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2014年10月20日月曜日
2014年10月6日月曜日
新宿LOFT樋口寛子さんのお話 [フォーラムをふりかえって 3]
志村正彦さんとご親交のあった方々からのコメントの発表に引き続いて、志村さんをインディーズデビュー以前からよく知る新宿LOFTの樋口寛子さん、志村さんのファンという立場から倉辺洋介さん、前嶋愛子さん、ウェブロックマガジン「BEEAST」副編集長の鈴木亮介さんに、各々10分から15分ほどお話しをしていただきました。
樋口さんはロフトプロジェクトの担当者として、インディーズ時代の「アラカルト」「アラモード」の2枚のアルバムの制作に携わった方です。インディーズデビュー前後の志村さんについて、時に会場からの質問にも応じながら、次のようにお話してくださいました。
「線香花火」と「茜色の夕日」が入ったカセットテープを聴いて、とてもいい曲だなあと思ったのが出会いでした。最初にロフトにライブにやってきた時は、「若いのがやってきたな」という印象でした。
当時21歳の志村君はふだんは物静かでしたが、ステージにはうれしそうに立っていました。でも、照れなのか、歌もMCもまっすぐにお客さんを見ることができなくて、そのことはライブ終了後に話したことがありました。それが、メジャーデビューの頃には堂々と前を見て歌っていて成長を感じました。
ロフトレーベルからインディーズのアルバムを2枚出しました。1枚目の時からいきなり売れたわけではなかったのですが、ライブを重ねるたびにどんどんお客さんの数が増えていきました。 志村君の曲は聴けば聴くほど味がある、そんな魅力があるのだと思います。どんどん増えていくお客さんを見て、長くやってくれるバンドになると確信しました。
アルバムを作る時も志村君の歌詞やメロディーに対して何かを言ったことはありませんでした。「新しい曲ができました」と生まれてくるものをただ信頼して待っていました。
インディーズのアルバムにはあの当時にしか出せない空気感や初期衝動がパッケージされていて、今でもよく聴くし大好きです。あれを超えるものには出会えていないです。
樋口さんのお話からは、志村さんと樋口さんの間にある信頼感が伝わってきました。インディーズ時代のすばらしいアルバムもこの信頼感があってこそ可能になったのだろうとあらためて感じることができました。
樋口さんはロフトプロジェクトの担当者として、インディーズ時代の「アラカルト」「アラモード」の2枚のアルバムの制作に携わった方です。インディーズデビュー前後の志村さんについて、時に会場からの質問にも応じながら、次のようにお話してくださいました。
「線香花火」と「茜色の夕日」が入ったカセットテープを聴いて、とてもいい曲だなあと思ったのが出会いでした。最初にロフトにライブにやってきた時は、「若いのがやってきたな」という印象でした。
当時21歳の志村君はふだんは物静かでしたが、ステージにはうれしそうに立っていました。でも、照れなのか、歌もMCもまっすぐにお客さんを見ることができなくて、そのことはライブ終了後に話したことがありました。それが、メジャーデビューの頃には堂々と前を見て歌っていて成長を感じました。
ロフトレーベルからインディーズのアルバムを2枚出しました。1枚目の時からいきなり売れたわけではなかったのですが、ライブを重ねるたびにどんどんお客さんの数が増えていきました。 志村君の曲は聴けば聴くほど味がある、そんな魅力があるのだと思います。どんどん増えていくお客さんを見て、長くやってくれるバンドになると確信しました。
アルバムを作る時も志村君の歌詞やメロディーに対して何かを言ったことはありませんでした。「新しい曲ができました」と生まれてくるものをただ信頼して待っていました。
インディーズのアルバムにはあの当時にしか出せない空気感や初期衝動がパッケージされていて、今でもよく聴くし大好きです。あれを超えるものには出会えていないです。
樋口さんのお話からは、志村さんと樋口さんの間にある信頼感が伝わってきました。インディーズ時代のすばらしいアルバムもこの信頼感があってこそ可能になったのだろうとあらためて感じることができました。
2014年9月28日日曜日
ご親交のあった方々からのコメント [フォーラムをふりかえって 2]
ライブ映像上映後、志村正彦さんとご親交のあった方々からのコメントを実行委員が代読させていただきました。
渡辺平蔵さんと小俣梓司さんは高校時代バンドを組んでいたご友人で、上京してから「富士ファブリック」を結成した時のオリジナルメンバーでした。コメントはパネルにして展示室にも掲示させていただきました。(「ご両親・ご友人・恩師の言葉 [展示をふりかえって 4] 」参照。http://msforexh.blogspot.jp/2014/07/blog-post_26.html )
渡辺平蔵さんに関しては、パネルに掲示した以外に、小学生のとき、二人で自転車で遠出して帰れなくなり最後に残っていた10円で家に電話をして迎えに来てもらったことや、高校時代にバイクで甲府にエフェクターを買いに行き、帰り道で志村さんが転倒してバイクが故障してしまったこと、「いつもの丘」のさらに奥の見晴らしのいいところに行って、二人で何を話すでもなく座って景色を眺めていたことなどのエピソードもお話ししていただいたので、それをまとめて読ませていただきました。
お二人の言葉からは、志村さんの普通の少年、青年であった姿と、やはり人とは違う特別であった姿との両方をうかがうことができました。
もう一人、志村さんの小学校時代の担任であった渡辺光美先生が以前にお書きになった文章を、許可を得てご紹介させていただきました。
桜の季節になり、志村正彦君、まー君のことを思い出すこと。何かを成し遂げつつあったまー君の突然の死から命のはかなさ、大切さを思い、みなさんにもそれを思ってほしいということ。展示させていただいた学級通信をお作りになった先生の教え子の死を悼む気持ちが伝わってきました。
お三方とも、お仕事の都合などのご事情があってフォーラムにご参加いただけませんでしたが、コメントの形でご協力いただいたことは大変ありがたいことでした。感謝申し上げます。
身近で志村さんを見ていた方のコメントは、あらためて失われたものの大きさを感じさせるものであったからでしょうか、会場はしんみりとした雰囲気に包まれました。
渡辺平蔵さんと小俣梓司さんは高校時代バンドを組んでいたご友人で、上京してから「富士ファブリック」を結成した時のオリジナルメンバーでした。コメントはパネルにして展示室にも掲示させていただきました。(「ご両親・ご友人・恩師の言葉 [展示をふりかえって 4] 」参照。http://msforexh.blogspot.jp/2014/07/blog-post_26.html )
渡辺平蔵さんに関しては、パネルに掲示した以外に、小学生のとき、二人で自転車で遠出して帰れなくなり最後に残っていた10円で家に電話をして迎えに来てもらったことや、高校時代にバイクで甲府にエフェクターを買いに行き、帰り道で志村さんが転倒してバイクが故障してしまったこと、「いつもの丘」のさらに奥の見晴らしのいいところに行って、二人で何を話すでもなく座って景色を眺めていたことなどのエピソードもお話ししていただいたので、それをまとめて読ませていただきました。
お二人の言葉からは、志村さんの普通の少年、青年であった姿と、やはり人とは違う特別であった姿との両方をうかがうことができました。
もう一人、志村さんの小学校時代の担任であった渡辺光美先生が以前にお書きになった文章を、許可を得てご紹介させていただきました。
桜の季節になり、志村正彦君、まー君のことを思い出すこと。何かを成し遂げつつあったまー君の突然の死から命のはかなさ、大切さを思い、みなさんにもそれを思ってほしいということ。展示させていただいた学級通信をお作りになった先生の教え子の死を悼む気持ちが伝わってきました。
お三方とも、お仕事の都合などのご事情があってフォーラムにご参加いただけませんでしたが、コメントの形でご協力いただいたことは大変ありがたいことでした。感謝申し上げます。
身近で志村さんを見ていた方のコメントは、あらためて失われたものの大きさを感じさせるものであったからでしょうか、会場はしんみりとした雰囲気に包まれました。
2014年9月21日日曜日
フォーラムの進行とライブ映像の上映[フォーラムをふりかえって 1]
このブログを休載させていただいてから一月以上が絶ちました。本日から再開させていただきます。今回からしばらくの間、「志村正彦フォーラム」についてのご報告とふりかえりを掲載していきたいと思っております。
「志村正彦フォーラム」は、7月13日(日)14時より山梨県立図書館2階の多目的ホールを会場にして開催されました。定員は200名、後援者や関係者の分を除いて、160名の参加者を募りましたが、1週間ほど前には申し込みが定数に達しました。関係者の数を再確認し、一般の参加者を170名まで増やしましたが、最終的にはお断りしなければならない状況になりました。
会場のホールは前方上部にスクリーンがあるので、鑑賞しやすいように、当初は余裕を持って椅子を配置する予定でしたが、200名の満席状態だったので、ほとんどすべてのスペースを使って椅子を並べることになりました。後方は段差のある座席になっているので比較的見やすいのが幸いでした。
当日の進行は次の通りでした。
1.フジファブリック・ライブ映像 3曲上映[予定時間25分]
2.ゆかりの方コメント紹介・講演者4人によるトーク[予定時間55分]
3.フリートーク等[予定時間40分]
全部で2時間(120分)の予定でした。
初めに、フジファブリック・ライブ映像を3曲上映した理由は、参加者はもちろん志村さんの熱心なファンが多かったのですが、中にはまだよく知らないで参加したという方もいらっしゃったからです。 映像を見ていただくよい機会だと考えました。
主催者としてはもう一つの理由がありました。
志村さんは生前、故郷山梨でのライブについて、第一に実家近くの富士吉田市民会館、次に富士急ハイランドのコニファーフォレスト、さらに甲府の山梨県民文化ホール(昔も今もほとんどの音楽家の山梨公演はこの会場で行われます)の三カ所でやりたいという夢があったそうです。第一の夢は叶い、第二の夢も準備中だったのですが、結局、彼の亡くなった後に「フジフジ富士Q」としてゲストボーカル方式で開催されました。甲府でのライブはおそらく企画にまで上がることもなく、幻に終わりました。だからこそ、ライブ映像を通してではありますが、今回の志村展の会場でもある甲府で、フジファブリックの歌と演奏を会場のみんなで一緒に鑑賞したいという主催者側の想いがありました。擬似的コンサートではありますが、志村さんも喜んでくれるような気がしたからです。
曲目は次の3点を考えて選曲しました。
・時間の制約から代表曲3つに絞り、年代的なバランスも図ること。
・ライブ映像の会場は、新宿ロフトと富士五湖文化センターの二つが絶対に含まれること。
・彼の人生と作品について知ることのできるMCのある映像であること。
このような観点から以下の3曲に決め、上映しました。(映像制作者のEMI Records Japan様には事前に許諾していただきました。あらためて感謝を申し上げます)
1.『桜の季節』(2004.4.13@新宿LOFT) 『FAB BOX』収録
2.『若者のすべて』(2007.12.15@両国国技館) 『両国国技館ライブ』収録
3.『茜色の夕日』(2008.5.31@富士五湖文化センター) 『FAB BOX II』収録
大型スクリーンに映し出される志村さんの映像を参加者みんなで見ることは意味のあることだったと考えています。どれもすばらしい演奏と内容の濃いMCで、夢中で見ているうちにあっという間に時間が経ってしまいました。フォーラムの参加者にお書きいただいたアンケートにも、始めにライブ映像を見ることができて良かったという感想が多く寄せられました。
「志村正彦フォーラム」は、7月13日(日)14時より山梨県立図書館2階の多目的ホールを会場にして開催されました。定員は200名、後援者や関係者の分を除いて、160名の参加者を募りましたが、1週間ほど前には申し込みが定数に達しました。関係者の数を再確認し、一般の参加者を170名まで増やしましたが、最終的にはお断りしなければならない状況になりました。
会場のホールは前方上部にスクリーンがあるので、鑑賞しやすいように、当初は余裕を持って椅子を配置する予定でしたが、200名の満席状態だったので、ほとんどすべてのスペースを使って椅子を並べることになりました。後方は段差のある座席になっているので比較的見やすいのが幸いでした。
当日の進行は次の通りでした。
1.フジファブリック・ライブ映像 3曲上映[予定時間25分]
2.ゆかりの方コメント紹介・講演者4人によるトーク[予定時間55分]
3.フリートーク等[予定時間40分]
全部で2時間(120分)の予定でした。
初めに、フジファブリック・ライブ映像を3曲上映した理由は、参加者はもちろん志村さんの熱心なファンが多かったのですが、中にはまだよく知らないで参加したという方もいらっしゃったからです。 映像を見ていただくよい機会だと考えました。
主催者としてはもう一つの理由がありました。
志村さんは生前、故郷山梨でのライブについて、第一に実家近くの富士吉田市民会館、次に富士急ハイランドのコニファーフォレスト、さらに甲府の山梨県民文化ホール(昔も今もほとんどの音楽家の山梨公演はこの会場で行われます)の三カ所でやりたいという夢があったそうです。第一の夢は叶い、第二の夢も準備中だったのですが、結局、彼の亡くなった後に「フジフジ富士Q」としてゲストボーカル方式で開催されました。甲府でのライブはおそらく企画にまで上がることもなく、幻に終わりました。だからこそ、ライブ映像を通してではありますが、今回の志村展の会場でもある甲府で、フジファブリックの歌と演奏を会場のみんなで一緒に鑑賞したいという主催者側の想いがありました。擬似的コンサートではありますが、志村さんも喜んでくれるような気がしたからです。
曲目は次の3点を考えて選曲しました。
・時間の制約から代表曲3つに絞り、年代的なバランスも図ること。
・ライブ映像の会場は、新宿ロフトと富士五湖文化センターの二つが絶対に含まれること。
・彼の人生と作品について知ることのできるMCのある映像であること。
このような観点から以下の3曲に決め、上映しました。(映像制作者のEMI Records Japan様には事前に許諾していただきました。あらためて感謝を申し上げます)
1.『桜の季節』(2004.4.13@新宿LOFT) 『FAB BOX』収録
2.『若者のすべて』(2007.12.15@両国国技館) 『両国国技館ライブ』収録
3.『茜色の夕日』(2008.5.31@富士五湖文化センター) 『FAB BOX II』収録
大型スクリーンに映し出される志村さんの映像を参加者みんなで見ることは意味のあることだったと考えています。どれもすばらしい演奏と内容の濃いMCで、夢中で見ているうちにあっという間に時間が経ってしまいました。フォーラムの参加者にお書きいただいたアンケートにも、始めにライブ映像を見ることができて良かったという感想が多く寄せられました。
2014年8月11日月曜日
現実と課題 [展示をふりかえって 11]
「ロックの詩人 志村正彦展」が終了して一ヶ月が経ちます。これまで展示について10回ほどふりかえってきました。(各々の回にテーマを設けたり、ナンバーを付けかえたりして、題名を少し変更させていただきました)
この「ふりかえり」を書いた理由は、今後、志村正彦、フジファブリック、あるいはその他のアーティストに対して、何らかの活動をする方々のために、少しでも参考になればという想いからでした。
人は経験を通して学ぶことができます。今回の試みから学んだことを、様々な問題点を含めて、伝えていくことが必要だと考えました。現実的な制約、予算上の問題、権利上の配慮などについても、簡潔ではありますが、記しました。それらは、読みようによっては、言い訳めいたものに感じられたかもしれませんが、それは私たちの本意ではなく、事実や課題を明らかにすることが大切だという判断をしました。
この公式webをご覧になっている方は、このような「ふりかえり」よりも、客観的な「報告」、展示資料の紹介や写真の掲載を求められているかもしれません。しかし、すでに書きましたように、『若者のすべて』草稿をはじめ、展示室内の限定公開という性格上、詳細に記すことは控えました。
この機会に、今回の組織について説明します。「ロックの詩人 志村正彦展」の実行委員会は、非営利の自発的組織でした。私と妻が中心となり、私たちの家族や友人たちの支援と協力を得て、組織しました。企画・資料選択と構成・解説執筆は、代表の私がほぼ一人で担当しました。(したがって、これらに関する全責任は代表の私にあります)原稿については、妻の助言や校閲も経て完成させました。パネル作成、展示室での飾り付け、当日の運営については、家族や友人、仲間たちが中心となりました。
これまで「展示」についてふりかえってきました。まだ、フォーラムのふりかえりやアンケートの報告が残っていますが、このあたりで、一か月ほど休載期間をいただいて、その後再開したいと思います。
誠に 申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。
「ロックの詩人 志村正彦展」 実行委員会 代表 小林一之
この「ふりかえり」を書いた理由は、今後、志村正彦、フジファブリック、あるいはその他のアーティストに対して、何らかの活動をする方々のために、少しでも参考になればという想いからでした。
人は経験を通して学ぶことができます。今回の試みから学んだことを、様々な問題点を含めて、伝えていくことが必要だと考えました。現実的な制約、予算上の問題、権利上の配慮などについても、簡潔ではありますが、記しました。それらは、読みようによっては、言い訳めいたものに感じられたかもしれませんが、それは私たちの本意ではなく、事実や課題を明らかにすることが大切だという判断をしました。
この公式webをご覧になっている方は、このような「ふりかえり」よりも、客観的な「報告」、展示資料の紹介や写真の掲載を求められているかもしれません。しかし、すでに書きましたように、『若者のすべて』草稿をはじめ、展示室内の限定公開という性格上、詳細に記すことは控えました。
この機会に、今回の組織について説明します。「ロックの詩人 志村正彦展」の実行委員会は、非営利の自発的組織でした。私と妻が中心となり、私たちの家族や友人たちの支援と協力を得て、組織しました。企画・資料選択と構成・解説執筆は、代表の私がほぼ一人で担当しました。(したがって、これらに関する全責任は代表の私にあります)原稿については、妻の助言や校閲も経て完成させました。パネル作成、展示室での飾り付け、当日の運営については、家族や友人、仲間たちが中心となりました。
これまで「展示」についてふりかえってきました。まだ、フォーラムのふりかえりやアンケートの報告が残っていますが、このあたりで、一か月ほど休載期間をいただいて、その後再開したいと思います。
誠に 申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。
「ロックの詩人 志村正彦展」 実行委員会 代表 小林一之
2014年8月10日日曜日
展示室2のアルバム [展示をふりかえって 10]
2014年8月9日土曜日
『若者のすべて』草稿について [展示をふりかえって 9]
「ロックの詩人 志村正彦展」の中で最も貴重な展示資料は、『若者のすべて』草稿ノートでした。この資料の存在を知り、その本文を読んだ時から、この草稿を中心に、「ロックの詩人」としての志村正彦を展示するという計画が動き出しました。
この『若者のすべて』草稿と完成作品を比較検討すると、志村正彦の創作過程が浮かび上がってきます。簡潔にまとめると、次の4点になります。(展示パネルで公開した文を要約したものです)
1.「最後の花火」とそれに関連するモチーフが全くない。
2.時間の設定が異なる。草稿は「七月の今日」、完成作は「真夏のピークが去った」頃である。
3.サビ「ないかな ないかな きっとね いないよな」から始まる構成であり、サビ自体にも違いがある。
4.その他完成作と異なる、いくつかの表現やモチーフがある。
この草稿はすでにある言葉の水準に達していて、『若者のすべて』完成作につながる世界を充分に表現していました。
草稿というと未完成、未熟なものという消極的、否定的評価もありますが、企画担当者は幾つかの観点から、この草稿の価値を高く評価しました。
・この草稿はある詩的世界を形成していて、独自の価値を持っている。それゆえに、志村正彦の評価を貶めるようなものでは全くないこと。
・完成作は、草稿の表現内容をさらに高度な水準に変化させている。志村正彦は歌詞を何度も書き直したことが知られているが、その推敲過程を、実際の資料で検証できるものとして、第1級の資料価値があること。
・志村正彦が大切に保管していたと思われる資料群の中から発見された手書きの資料であり、本人もかなりの愛着を持っていた資料だと推測されること。
・ワープロで作詞することが多い時代において、自筆の資料が遺されていこと自体がある意味で奇蹟であること。
以上のような観点から、この草稿を公開することが、志村正彦という「ロックの詩人」の理解を深めるために重要であると考えました。
しかし、草稿を公開するために、「著作者人格権」上の「公表権」にどう対応するのかという課題が生じます。「公表権」を簡潔に説明すると、未公表の著作物を発表・公開する権利のことで、著作者人格権により、著作者本人のみが所有するものです。問題は、著作者が亡くなった場合です。死後遺された作品を誰がどのような権利で公表できるのかという問題が生じます。現在、著作者没後の場合、著作者人格権についても、著作権の継承者である家族が一定の範囲内でその権利も継承するというのが国際的に合理的な考え方のようです。
今回は、そのために、志村正彦氏のご家族に、この草稿の公開の意図と展示方法の概要を説明したところ、今回の展示室内で来場者が閲覧する形に限定して、公開することを承諾していただきました。ご家族の愛情と深慮に満ちた適切なご判断だと思われました。(この場をお借りして、あらためて深く感謝を申し上げます。)そのような経緯から、展示室での撮影は(その他の資料も含めて)禁止とさせていただきました。
展示についてどのような方法がいいのか、最後の最後まで悩みました。本来なら、この草稿ノートのみを展示すればいいのですが、場所と期間を限定した公開であり、閲覧自体もそれほど時間をかけられないことから、企画担当者側からの「ひとつの仮説」を提示し、パネルをある程度の数用意することで、草稿に向き合う視点のひとつを提供し、みなさまの鑑賞や議論の土台となればいいと考えました。
当初は数倍書いた説明文を削りに削り、できるだけ簡潔に分かりやすく記述することに心がけました。草稿関連の展示パネルがようやく完成したのは前日のことでした。
以上のような経緯と考え方により、展示室2での『若者のすべて』草稿関連の展示があのような形となりました。
アンケートなどを読む限り、『若者のすべて』草稿の展示については肯定的評価がほとんどでした。ご覧になった方々の反応は何よりも、このような草稿が遺されていたことに対する「驚き」という一点に集約されます。そして、志村正彦の創作過程の具体的姿に触れることができ、歌詞を読み直す契機となったという感想も多く寄せられました。企画担当者としては、草稿展示の意図を理解していただいたようで、有り難く思いました。
『若者のすべて』草稿は、あの展示室で閲覧していただいた方の「記憶」の中にのみ存在しています。上記の経緯から、この公式web上でもこの草稿本文の公開はできません。そのような事情をどうかご理解ください。(当然ですが、企画展担当者も例外ではありません。個人としてもあの草稿の本文に言及することは一切ありません)
これはあくまで企画担当者の個人的意見ですが、『若者のすべて』草稿が公開されるとしたら、信頼できる出版社から信頼できる書物によって公刊する形で公開されることが望ましいと考えます。その上で、志村正彦の聴き手が各々自由に、この草稿を読み、この草稿について考える時が訪れることを願っています。
この『若者のすべて』草稿と完成作品を比較検討すると、志村正彦の創作過程が浮かび上がってきます。簡潔にまとめると、次の4点になります。(展示パネルで公開した文を要約したものです)
1.「最後の花火」とそれに関連するモチーフが全くない。
2.時間の設定が異なる。草稿は「七月の今日」、完成作は「真夏のピークが去った」頃である。
3.サビ「ないかな ないかな きっとね いないよな」から始まる構成であり、サビ自体にも違いがある。
4.その他完成作と異なる、いくつかの表現やモチーフがある。
この草稿はすでにある言葉の水準に達していて、『若者のすべて』完成作につながる世界を充分に表現していました。
草稿というと未完成、未熟なものという消極的、否定的評価もありますが、企画担当者は幾つかの観点から、この草稿の価値を高く評価しました。
・この草稿はある詩的世界を形成していて、独自の価値を持っている。それゆえに、志村正彦の評価を貶めるようなものでは全くないこと。
・完成作は、草稿の表現内容をさらに高度な水準に変化させている。志村正彦は歌詞を何度も書き直したことが知られているが、その推敲過程を、実際の資料で検証できるものとして、第1級の資料価値があること。
・志村正彦が大切に保管していたと思われる資料群の中から発見された手書きの資料であり、本人もかなりの愛着を持っていた資料だと推測されること。
・ワープロで作詞することが多い時代において、自筆の資料が遺されていこと自体がある意味で奇蹟であること。
以上のような観点から、この草稿を公開することが、志村正彦という「ロックの詩人」の理解を深めるために重要であると考えました。
しかし、草稿を公開するために、「著作者人格権」上の「公表権」にどう対応するのかという課題が生じます。「公表権」を簡潔に説明すると、未公表の著作物を発表・公開する権利のことで、著作者人格権により、著作者本人のみが所有するものです。問題は、著作者が亡くなった場合です。死後遺された作品を誰がどのような権利で公表できるのかという問題が生じます。現在、著作者没後の場合、著作者人格権についても、著作権の継承者である家族が一定の範囲内でその権利も継承するというのが国際的に合理的な考え方のようです。
今回は、そのために、志村正彦氏のご家族に、この草稿の公開の意図と展示方法の概要を説明したところ、今回の展示室内で来場者が閲覧する形に限定して、公開することを承諾していただきました。ご家族の愛情と深慮に満ちた適切なご判断だと思われました。(この場をお借りして、あらためて深く感謝を申し上げます。)そのような経緯から、展示室での撮影は(その他の資料も含めて)禁止とさせていただきました。
展示についてどのような方法がいいのか、最後の最後まで悩みました。本来なら、この草稿ノートのみを展示すればいいのですが、場所と期間を限定した公開であり、閲覧自体もそれほど時間をかけられないことから、企画担当者側からの「ひとつの仮説」を提示し、パネルをある程度の数用意することで、草稿に向き合う視点のひとつを提供し、みなさまの鑑賞や議論の土台となればいいと考えました。
当初は数倍書いた説明文を削りに削り、できるだけ簡潔に分かりやすく記述することに心がけました。草稿関連の展示パネルがようやく完成したのは前日のことでした。
以上のような経緯と考え方により、展示室2での『若者のすべて』草稿関連の展示があのような形となりました。
アンケートなどを読む限り、『若者のすべて』草稿の展示については肯定的評価がほとんどでした。ご覧になった方々の反応は何よりも、このような草稿が遺されていたことに対する「驚き」という一点に集約されます。そして、志村正彦の創作過程の具体的姿に触れることができ、歌詞を読み直す契機となったという感想も多く寄せられました。企画担当者としては、草稿展示の意図を理解していただいたようで、有り難く思いました。
『若者のすべて』草稿は、あの展示室で閲覧していただいた方の「記憶」の中にのみ存在しています。上記の経緯から、この公式web上でもこの草稿本文の公開はできません。そのような事情をどうかご理解ください。(当然ですが、企画展担当者も例外ではありません。個人としてもあの草稿の本文に言及することは一切ありません)
これはあくまで企画担当者の個人的意見ですが、『若者のすべて』草稿が公開されるとしたら、信頼できる出版社から信頼できる書物によって公刊する形で公開されることが望ましいと考えます。その上で、志村正彦の聴き手が各々自由に、この草稿を読み、この草稿について考える時が訪れることを願っています。
2014年8月8日金曜日
二つの記事と写真、メッセージとアンケート [展示をふりかえって 8]
展示室2では、壁面の4分の1ほどのスペースを使って、『音楽と人』に掲載されたインタビュー記事四つ[樋口靖幸氏が志村正彦を取材した記事(2005年12月号、2008年2月号、2009年6月号)と金澤・加藤・山内の3氏を取材した記事(2010年8月号)]と、『H』2006年3月号の記事(母校吉田高校で取材したもの)の計五つの雑誌記事をそのままB2ポスターケースに入れて展示しました。
特に、『音楽と人』2005年12月号と2010年8月号の二つの記事は共に富士吉田での取材に基づいて書かれています。二つとも、忠霊塔へと上る階段の同じ位置で撮影された写真が掲載されています。2005年12月号では志村正彦1人が、2010年8月号では金澤ダイスケ・加藤慎一・山内総一郎の3人が、あの階段で佇んでいます。背後には富士吉田の街が広がっています。
死は、人々の哀しみや嘆きを超えて、時に、現実を顕わにします。とても辛くなる、ある意味では残酷で悲劇的な2枚の写真です。企画担当者としては、この2枚の写真がフジファブリックの10年の現実を静かに物語っていると考え、ためらう気持ちもありましたが、御批判も覚悟の上で展示することに決めました。
特に、『音楽と人』2005年12月号と2010年8月号の二つの記事は共に富士吉田での取材に基づいて書かれています。二つとも、忠霊塔へと上る階段の同じ位置で撮影された写真が掲載されています。2005年12月号では志村正彦1人が、2010年8月号では金澤ダイスケ・加藤慎一・山内総一郎の3人が、あの階段で佇んでいます。背後には富士吉田の街が広がっています。
この二つの記事の間、2009年12月に志村正彦は急逝しました。
死は、人々の哀しみや嘆きを超えて、時に、現実を顕わにします。とても辛くなる、ある意味では残酷で悲劇的な2枚の写真です。企画担当者としては、この2枚の写真がフジファブリックの10年の現実を静かに物語っていると考え、ためらう気持ちもありましたが、御批判も覚悟の上で展示することに決めました。
展示室2の最後には、「志村正彦へのメッセージ」(志村家に贈るもの)と「志村正彦展アンケート」の2点を書いていただくコーナーを設置しました。来場された方の内かなりの方が時間をかけて丁寧に書いてくださいました。お一人が長い時間かけていらっしゃるので席がたりなくなり、途中で増やしましたが、あきらめてお帰りになったり外でお書きになったりした方もいたようで、申し訳ありません。
「志村正彦へのメッセージ」は志村さんのご家族にお渡ししました。みなさんの心のこもった言葉はきっと志村正彦さんに届いているだろうと思います。
「志村正彦展アンケート」の数は400枚以上となり、実行委員で一つひとつ読ませていただいています。本当にありがとうございました。多くの方が長文でお書きくださったので、少しお時間をいただきますが、今後アンケートについてもご紹介していきたいと考えています。
「志村正彦へのメッセージ」は志村さんのご家族にお渡ししました。みなさんの心のこもった言葉はきっと志村正彦さんに届いているだろうと思います。
「志村正彦展アンケート」の数は400枚以上となり、実行委員で一つひとつ読ませていただいています。本当にありがとうございました。多くの方が長文でお書きくださったので、少しお時間をいただきますが、今後アンケートについてもご紹介していきたいと考えています。
2014年8月3日日曜日
展示室2の構成 [展示をふりかえって 7]
今回から、「展示とフォーラムをふりかえって」は展示室2に移ります。
展示室2では、当初、展示室1のⅠ部「志村正彦クロニクル」に引き続いて、 Ⅱ部「ロックの詩人」、Ⅲ部 「フジファブリックの10年」という構成を考えました。しかし、展示室での作業時間の制約(12日の午前の3時間しか確保できませんでした)や展示ケースの数(会場で借りられるケースは残り1つでしたので、結局、ケースを1つ購入することになりました。予算的にはこれが限界でした)などの物理的要因で、当初の予定からかなり変更することを余儀なくされました。
色々とシミュレーションした結果、「ロックの詩人」の展示資料については、『若者のすべて』草稿ノートを中心に、『志村正彦全詩集』『若者のすべて』の楽譜等を展示ケース内に置き、壁面の解説パネルを充実させて、補足的な説明を行うことにしました。(『若者のすべて』草稿の展示意図については、項目を独立させて書く予定です)
「フジファブリックの10年」の展示については、Ⅰ部「志村正彦クロニクル」を継続する形で、
11. (志村正彦)没後の反響・出来事 [2010-2014]
というコーナーを作り、志村正彦愛用の黒いハット(今回のポスターの写真で被っているもの)、ライブで使っていたケーブルを入れたアルミケース、『Talking Rock!』等の志村追悼特集号、『FAB BOX』、『SINGLES 2004-2009』、『FAB BOXⅡ』等の没後リリース作品、モテキ関連のパンフレットなどを縦長の展示ケースに陳列しました。最も最近の動向を伝えるものとして、4月13日の『Live at 富士五湖文化センター』上映會のポスターも展示しました。
次のコーナーでは、
12. 2010~2014年 【3人編成のフジファブリック】
という展示パネルを作り、金澤ダイスケ・加藤慎一・山内総一郎の3人編成のフジファブリックの最新作『LIFE』のポスターを壁面に飾りました。(2010年以降のフジファブリックのCD、DVD等も用意していたのですが、展示ケースが足りないという物理的理由により叶いませんでした)
本当に少ないスペースで申し訳ありませんでしたが、現在のフジファブリックについても何らかの形で展示したいと当初から考えていました。
展示室2では、当初、展示室1のⅠ部「志村正彦クロニクル」に引き続いて、 Ⅱ部「ロックの詩人」、Ⅲ部 「フジファブリックの10年」という構成を考えました。しかし、展示室での作業時間の制約(12日の午前の3時間しか確保できませんでした)や展示ケースの数(会場で借りられるケースは残り1つでしたので、結局、ケースを1つ購入することになりました。予算的にはこれが限界でした)などの物理的要因で、当初の予定からかなり変更することを余儀なくされました。
色々とシミュレーションした結果、「ロックの詩人」の展示資料については、『若者のすべて』草稿ノートを中心に、『志村正彦全詩集』『若者のすべて』の楽譜等を展示ケース内に置き、壁面の解説パネルを充実させて、補足的な説明を行うことにしました。(『若者のすべて』草稿の展示意図については、項目を独立させて書く予定です)
「フジファブリックの10年」の展示については、Ⅰ部「志村正彦クロニクル」を継続する形で、
11. (志村正彦)没後の反響・出来事 [2010-2014]
というコーナーを作り、志村正彦愛用の黒いハット(今回のポスターの写真で被っているもの)、ライブで使っていたケーブルを入れたアルミケース、『Talking Rock!』等の志村追悼特集号、『FAB BOX』、『SINGLES 2004-2009』、『FAB BOXⅡ』等の没後リリース作品、モテキ関連のパンフレットなどを縦長の展示ケースに陳列しました。最も最近の動向を伝えるものとして、4月13日の『Live at 富士五湖文化センター』上映會のポスターも展示しました。
次のコーナーでは、
12. 2010~2014年 【3人編成のフジファブリック】
という展示パネルを作り、金澤ダイスケ・加藤慎一・山内総一郎の3人編成のフジファブリックの最新作『LIFE』のポスターを壁面に飾りました。(2010年以降のフジファブリックのCD、DVD等も用意していたのですが、展示ケースが足りないという物理的理由により叶いませんでした)
本当に少ないスペースで申し訳ありませんでしたが、現在のフジファブリックについても何らかの形で展示したいと当初から考えていました。
2014年8月2日土曜日
展示室1のアルバム [展示をふりかえって 6]
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