ライブ映像上映後、志村正彦さんとご親交のあった方々からのコメントを実行委員が代読させていただきました。
渡辺平蔵さんと小俣梓司さんは高校時代バンドを組んでいたご友人で、上京してから「富士ファブリック」を結成した時のオリジナルメンバーでした。コメントはパネルにして展示室にも掲示させていただきました。(「ご両親・ご友人・恩師の言葉 [展示をふりかえって 4] 」参照。http://msforexh.blogspot.jp/2014/07/blog-post_26.html )
渡辺平蔵さんに関しては、パネルに掲示した以外に、小学生のとき、二人で自転車で遠出して帰れなくなり最後に残っていた10円で家に電話をして迎えに来てもらったことや、高校時代にバイクで甲府にエフェクターを買いに行き、帰り道で志村さんが転倒してバイクが故障してしまったこと、「いつもの丘」のさらに奥の見晴らしのいいところに行って、二人で何を話すでもなく座って景色を眺めていたことなどのエピソードもお話ししていただいたので、それをまとめて読ませていただきました。
お二人の言葉からは、志村さんの普通の少年、青年であった姿と、やはり人とは違う特別であった姿との両方をうかがうことができました。
もう一人、志村さんの小学校時代の担任であった渡辺光美先生が以前にお書きになった文章を、許可を得てご紹介させていただきました。
桜の季節になり、志村正彦君、まー君のことを思い出すこと。何かを成し遂げつつあったまー君の突然の死から命のはかなさ、大切さを思い、みなさんにもそれを思ってほしいということ。展示させていただいた学級通信をお作りになった先生の教え子の死を悼む気持ちが伝わってきました。
お三方とも、お仕事の都合などのご事情があってフォーラムにご参加いただけませんでしたが、コメントの形でご協力いただいたことは大変ありがたいことでした。感謝申し上げます。
身近で志村さんを見ていた方のコメントは、あらためて失われたものの大きさを感じさせるものであったからでしょうか、会場はしんみりとした雰囲気に包まれました。
「ロックの詩人 志村正彦展」(2014.7.12-13)は、1100人を超える来場者に恵まれ、終了しました。ご来場いただいた方、ご協力いただいた方に感謝を申し上げます。
flier

2014年9月28日日曜日
2014年9月21日日曜日
フォーラムの進行とライブ映像の上映[フォーラムをふりかえって 1]
このブログを休載させていただいてから一月以上が絶ちました。本日から再開させていただきます。今回からしばらくの間、「志村正彦フォーラム」についてのご報告とふりかえりを掲載していきたいと思っております。
「志村正彦フォーラム」は、7月13日(日)14時より山梨県立図書館2階の多目的ホールを会場にして開催されました。定員は200名、後援者や関係者の分を除いて、160名の参加者を募りましたが、1週間ほど前には申し込みが定数に達しました。関係者の数を再確認し、一般の参加者を170名まで増やしましたが、最終的にはお断りしなければならない状況になりました。
会場のホールは前方上部にスクリーンがあるので、鑑賞しやすいように、当初は余裕を持って椅子を配置する予定でしたが、200名の満席状態だったので、ほとんどすべてのスペースを使って椅子を並べることになりました。後方は段差のある座席になっているので比較的見やすいのが幸いでした。
当日の進行は次の通りでした。
1.フジファブリック・ライブ映像 3曲上映[予定時間25分]
2.ゆかりの方コメント紹介・講演者4人によるトーク[予定時間55分]
3.フリートーク等[予定時間40分]
全部で2時間(120分)の予定でした。
初めに、フジファブリック・ライブ映像を3曲上映した理由は、参加者はもちろん志村さんの熱心なファンが多かったのですが、中にはまだよく知らないで参加したという方もいらっしゃったからです。 映像を見ていただくよい機会だと考えました。
主催者としてはもう一つの理由がありました。
志村さんは生前、故郷山梨でのライブについて、第一に実家近くの富士吉田市民会館、次に富士急ハイランドのコニファーフォレスト、さらに甲府の山梨県民文化ホール(昔も今もほとんどの音楽家の山梨公演はこの会場で行われます)の三カ所でやりたいという夢があったそうです。第一の夢は叶い、第二の夢も準備中だったのですが、結局、彼の亡くなった後に「フジフジ富士Q」としてゲストボーカル方式で開催されました。甲府でのライブはおそらく企画にまで上がることもなく、幻に終わりました。だからこそ、ライブ映像を通してではありますが、今回の志村展の会場でもある甲府で、フジファブリックの歌と演奏を会場のみんなで一緒に鑑賞したいという主催者側の想いがありました。擬似的コンサートではありますが、志村さんも喜んでくれるような気がしたからです。
曲目は次の3点を考えて選曲しました。
・時間の制約から代表曲3つに絞り、年代的なバランスも図ること。
・ライブ映像の会場は、新宿ロフトと富士五湖文化センターの二つが絶対に含まれること。
・彼の人生と作品について知ることのできるMCのある映像であること。
このような観点から以下の3曲に決め、上映しました。(映像制作者のEMI Records Japan様には事前に許諾していただきました。あらためて感謝を申し上げます)
1.『桜の季節』(2004.4.13@新宿LOFT) 『FAB BOX』収録
2.『若者のすべて』(2007.12.15@両国国技館) 『両国国技館ライブ』収録
3.『茜色の夕日』(2008.5.31@富士五湖文化センター) 『FAB BOX II』収録
大型スクリーンに映し出される志村さんの映像を参加者みんなで見ることは意味のあることだったと考えています。どれもすばらしい演奏と内容の濃いMCで、夢中で見ているうちにあっという間に時間が経ってしまいました。フォーラムの参加者にお書きいただいたアンケートにも、始めにライブ映像を見ることができて良かったという感想が多く寄せられました。
「志村正彦フォーラム」は、7月13日(日)14時より山梨県立図書館2階の多目的ホールを会場にして開催されました。定員は200名、後援者や関係者の分を除いて、160名の参加者を募りましたが、1週間ほど前には申し込みが定数に達しました。関係者の数を再確認し、一般の参加者を170名まで増やしましたが、最終的にはお断りしなければならない状況になりました。
会場のホールは前方上部にスクリーンがあるので、鑑賞しやすいように、当初は余裕を持って椅子を配置する予定でしたが、200名の満席状態だったので、ほとんどすべてのスペースを使って椅子を並べることになりました。後方は段差のある座席になっているので比較的見やすいのが幸いでした。
当日の進行は次の通りでした。
1.フジファブリック・ライブ映像 3曲上映[予定時間25分]
2.ゆかりの方コメント紹介・講演者4人によるトーク[予定時間55分]
3.フリートーク等[予定時間40分]
全部で2時間(120分)の予定でした。
初めに、フジファブリック・ライブ映像を3曲上映した理由は、参加者はもちろん志村さんの熱心なファンが多かったのですが、中にはまだよく知らないで参加したという方もいらっしゃったからです。 映像を見ていただくよい機会だと考えました。
主催者としてはもう一つの理由がありました。
志村さんは生前、故郷山梨でのライブについて、第一に実家近くの富士吉田市民会館、次に富士急ハイランドのコニファーフォレスト、さらに甲府の山梨県民文化ホール(昔も今もほとんどの音楽家の山梨公演はこの会場で行われます)の三カ所でやりたいという夢があったそうです。第一の夢は叶い、第二の夢も準備中だったのですが、結局、彼の亡くなった後に「フジフジ富士Q」としてゲストボーカル方式で開催されました。甲府でのライブはおそらく企画にまで上がることもなく、幻に終わりました。だからこそ、ライブ映像を通してではありますが、今回の志村展の会場でもある甲府で、フジファブリックの歌と演奏を会場のみんなで一緒に鑑賞したいという主催者側の想いがありました。擬似的コンサートではありますが、志村さんも喜んでくれるような気がしたからです。
曲目は次の3点を考えて選曲しました。
・時間の制約から代表曲3つに絞り、年代的なバランスも図ること。
・ライブ映像の会場は、新宿ロフトと富士五湖文化センターの二つが絶対に含まれること。
・彼の人生と作品について知ることのできるMCのある映像であること。
このような観点から以下の3曲に決め、上映しました。(映像制作者のEMI Records Japan様には事前に許諾していただきました。あらためて感謝を申し上げます)
1.『桜の季節』(2004.4.13@新宿LOFT) 『FAB BOX』収録
2.『若者のすべて』(2007.12.15@両国国技館) 『両国国技館ライブ』収録
3.『茜色の夕日』(2008.5.31@富士五湖文化センター) 『FAB BOX II』収録
大型スクリーンに映し出される志村さんの映像を参加者みんなで見ることは意味のあることだったと考えています。どれもすばらしい演奏と内容の濃いMCで、夢中で見ているうちにあっという間に時間が経ってしまいました。フォーラムの参加者にお書きいただいたアンケートにも、始めにライブ映像を見ることができて良かったという感想が多く寄せられました。
2014年8月11日月曜日
現実と課題 [展示をふりかえって 11]
「ロックの詩人 志村正彦展」が終了して一ヶ月が経ちます。これまで展示について10回ほどふりかえってきました。(各々の回にテーマを設けたり、ナンバーを付けかえたりして、題名を少し変更させていただきました)
この「ふりかえり」を書いた理由は、今後、志村正彦、フジファブリック、あるいはその他のアーティストに対して、何らかの活動をする方々のために、少しでも参考になればという想いからでした。
人は経験を通して学ぶことができます。今回の試みから学んだことを、様々な問題点を含めて、伝えていくことが必要だと考えました。現実的な制約、予算上の問題、権利上の配慮などについても、簡潔ではありますが、記しました。それらは、読みようによっては、言い訳めいたものに感じられたかもしれませんが、それは私たちの本意ではなく、事実や課題を明らかにすることが大切だという判断をしました。
この公式webをご覧になっている方は、このような「ふりかえり」よりも、客観的な「報告」、展示資料の紹介や写真の掲載を求められているかもしれません。しかし、すでに書きましたように、『若者のすべて』草稿をはじめ、展示室内の限定公開という性格上、詳細に記すことは控えました。
この機会に、今回の組織について説明します。「ロックの詩人 志村正彦展」の実行委員会は、非営利の自発的組織でした。私と妻が中心となり、私たちの家族や友人たちの支援と協力を得て、組織しました。企画・資料選択と構成・解説執筆は、代表の私がほぼ一人で担当しました。(したがって、これらに関する全責任は代表の私にあります)原稿については、妻の助言や校閲も経て完成させました。パネル作成、展示室での飾り付け、当日の運営については、家族や友人、仲間たちが中心となりました。
これまで「展示」についてふりかえってきました。まだ、フォーラムのふりかえりやアンケートの報告が残っていますが、このあたりで、一か月ほど休載期間をいただいて、その後再開したいと思います。
誠に 申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。
「ロックの詩人 志村正彦展」 実行委員会 代表 小林一之
この「ふりかえり」を書いた理由は、今後、志村正彦、フジファブリック、あるいはその他のアーティストに対して、何らかの活動をする方々のために、少しでも参考になればという想いからでした。
人は経験を通して学ぶことができます。今回の試みから学んだことを、様々な問題点を含めて、伝えていくことが必要だと考えました。現実的な制約、予算上の問題、権利上の配慮などについても、簡潔ではありますが、記しました。それらは、読みようによっては、言い訳めいたものに感じられたかもしれませんが、それは私たちの本意ではなく、事実や課題を明らかにすることが大切だという判断をしました。
この公式webをご覧になっている方は、このような「ふりかえり」よりも、客観的な「報告」、展示資料の紹介や写真の掲載を求められているかもしれません。しかし、すでに書きましたように、『若者のすべて』草稿をはじめ、展示室内の限定公開という性格上、詳細に記すことは控えました。
この機会に、今回の組織について説明します。「ロックの詩人 志村正彦展」の実行委員会は、非営利の自発的組織でした。私と妻が中心となり、私たちの家族や友人たちの支援と協力を得て、組織しました。企画・資料選択と構成・解説執筆は、代表の私がほぼ一人で担当しました。(したがって、これらに関する全責任は代表の私にあります)原稿については、妻の助言や校閲も経て完成させました。パネル作成、展示室での飾り付け、当日の運営については、家族や友人、仲間たちが中心となりました。
これまで「展示」についてふりかえってきました。まだ、フォーラムのふりかえりやアンケートの報告が残っていますが、このあたりで、一か月ほど休載期間をいただいて、その後再開したいと思います。
誠に 申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。
「ロックの詩人 志村正彦展」 実行委員会 代表 小林一之
2014年8月10日日曜日
展示室2のアルバム [展示をふりかえって 10]
2014年8月9日土曜日
『若者のすべて』草稿について [展示をふりかえって 9]
「ロックの詩人 志村正彦展」の中で最も貴重な展示資料は、『若者のすべて』草稿ノートでした。この資料の存在を知り、その本文を読んだ時から、この草稿を中心に、「ロックの詩人」としての志村正彦を展示するという計画が動き出しました。
この『若者のすべて』草稿と完成作品を比較検討すると、志村正彦の創作過程が浮かび上がってきます。簡潔にまとめると、次の4点になります。(展示パネルで公開した文を要約したものです)
1.「最後の花火」とそれに関連するモチーフが全くない。
2.時間の設定が異なる。草稿は「七月の今日」、完成作は「真夏のピークが去った」頃である。
3.サビ「ないかな ないかな きっとね いないよな」から始まる構成であり、サビ自体にも違いがある。
4.その他完成作と異なる、いくつかの表現やモチーフがある。
この草稿はすでにある言葉の水準に達していて、『若者のすべて』完成作につながる世界を充分に表現していました。
草稿というと未完成、未熟なものという消極的、否定的評価もありますが、企画担当者は幾つかの観点から、この草稿の価値を高く評価しました。
・この草稿はある詩的世界を形成していて、独自の価値を持っている。それゆえに、志村正彦の評価を貶めるようなものでは全くないこと。
・完成作は、草稿の表現内容をさらに高度な水準に変化させている。志村正彦は歌詞を何度も書き直したことが知られているが、その推敲過程を、実際の資料で検証できるものとして、第1級の資料価値があること。
・志村正彦が大切に保管していたと思われる資料群の中から発見された手書きの資料であり、本人もかなりの愛着を持っていた資料だと推測されること。
・ワープロで作詞することが多い時代において、自筆の資料が遺されていこと自体がある意味で奇蹟であること。
以上のような観点から、この草稿を公開することが、志村正彦という「ロックの詩人」の理解を深めるために重要であると考えました。
しかし、草稿を公開するために、「著作者人格権」上の「公表権」にどう対応するのかという課題が生じます。「公表権」を簡潔に説明すると、未公表の著作物を発表・公開する権利のことで、著作者人格権により、著作者本人のみが所有するものです。問題は、著作者が亡くなった場合です。死後遺された作品を誰がどのような権利で公表できるのかという問題が生じます。現在、著作者没後の場合、著作者人格権についても、著作権の継承者である家族が一定の範囲内でその権利も継承するというのが国際的に合理的な考え方のようです。
今回は、そのために、志村正彦氏のご家族に、この草稿の公開の意図と展示方法の概要を説明したところ、今回の展示室内で来場者が閲覧する形に限定して、公開することを承諾していただきました。ご家族の愛情と深慮に満ちた適切なご判断だと思われました。(この場をお借りして、あらためて深く感謝を申し上げます。)そのような経緯から、展示室での撮影は(その他の資料も含めて)禁止とさせていただきました。
展示についてどのような方法がいいのか、最後の最後まで悩みました。本来なら、この草稿ノートのみを展示すればいいのですが、場所と期間を限定した公開であり、閲覧自体もそれほど時間をかけられないことから、企画担当者側からの「ひとつの仮説」を提示し、パネルをある程度の数用意することで、草稿に向き合う視点のひとつを提供し、みなさまの鑑賞や議論の土台となればいいと考えました。
当初は数倍書いた説明文を削りに削り、できるだけ簡潔に分かりやすく記述することに心がけました。草稿関連の展示パネルがようやく完成したのは前日のことでした。
以上のような経緯と考え方により、展示室2での『若者のすべて』草稿関連の展示があのような形となりました。
アンケートなどを読む限り、『若者のすべて』草稿の展示については肯定的評価がほとんどでした。ご覧になった方々の反応は何よりも、このような草稿が遺されていたことに対する「驚き」という一点に集約されます。そして、志村正彦の創作過程の具体的姿に触れることができ、歌詞を読み直す契機となったという感想も多く寄せられました。企画担当者としては、草稿展示の意図を理解していただいたようで、有り難く思いました。
『若者のすべて』草稿は、あの展示室で閲覧していただいた方の「記憶」の中にのみ存在しています。上記の経緯から、この公式web上でもこの草稿本文の公開はできません。そのような事情をどうかご理解ください。(当然ですが、企画展担当者も例外ではありません。個人としてもあの草稿の本文に言及することは一切ありません)
これはあくまで企画担当者の個人的意見ですが、『若者のすべて』草稿が公開されるとしたら、信頼できる出版社から信頼できる書物によって公刊する形で公開されることが望ましいと考えます。その上で、志村正彦の聴き手が各々自由に、この草稿を読み、この草稿について考える時が訪れることを願っています。
この『若者のすべて』草稿と完成作品を比較検討すると、志村正彦の創作過程が浮かび上がってきます。簡潔にまとめると、次の4点になります。(展示パネルで公開した文を要約したものです)
1.「最後の花火」とそれに関連するモチーフが全くない。
2.時間の設定が異なる。草稿は「七月の今日」、完成作は「真夏のピークが去った」頃である。
3.サビ「ないかな ないかな きっとね いないよな」から始まる構成であり、サビ自体にも違いがある。
4.その他完成作と異なる、いくつかの表現やモチーフがある。
この草稿はすでにある言葉の水準に達していて、『若者のすべて』完成作につながる世界を充分に表現していました。
草稿というと未完成、未熟なものという消極的、否定的評価もありますが、企画担当者は幾つかの観点から、この草稿の価値を高く評価しました。
・この草稿はある詩的世界を形成していて、独自の価値を持っている。それゆえに、志村正彦の評価を貶めるようなものでは全くないこと。
・完成作は、草稿の表現内容をさらに高度な水準に変化させている。志村正彦は歌詞を何度も書き直したことが知られているが、その推敲過程を、実際の資料で検証できるものとして、第1級の資料価値があること。
・志村正彦が大切に保管していたと思われる資料群の中から発見された手書きの資料であり、本人もかなりの愛着を持っていた資料だと推測されること。
・ワープロで作詞することが多い時代において、自筆の資料が遺されていこと自体がある意味で奇蹟であること。
以上のような観点から、この草稿を公開することが、志村正彦という「ロックの詩人」の理解を深めるために重要であると考えました。
しかし、草稿を公開するために、「著作者人格権」上の「公表権」にどう対応するのかという課題が生じます。「公表権」を簡潔に説明すると、未公表の著作物を発表・公開する権利のことで、著作者人格権により、著作者本人のみが所有するものです。問題は、著作者が亡くなった場合です。死後遺された作品を誰がどのような権利で公表できるのかという問題が生じます。現在、著作者没後の場合、著作者人格権についても、著作権の継承者である家族が一定の範囲内でその権利も継承するというのが国際的に合理的な考え方のようです。
今回は、そのために、志村正彦氏のご家族に、この草稿の公開の意図と展示方法の概要を説明したところ、今回の展示室内で来場者が閲覧する形に限定して、公開することを承諾していただきました。ご家族の愛情と深慮に満ちた適切なご判断だと思われました。(この場をお借りして、あらためて深く感謝を申し上げます。)そのような経緯から、展示室での撮影は(その他の資料も含めて)禁止とさせていただきました。
展示についてどのような方法がいいのか、最後の最後まで悩みました。本来なら、この草稿ノートのみを展示すればいいのですが、場所と期間を限定した公開であり、閲覧自体もそれほど時間をかけられないことから、企画担当者側からの「ひとつの仮説」を提示し、パネルをある程度の数用意することで、草稿に向き合う視点のひとつを提供し、みなさまの鑑賞や議論の土台となればいいと考えました。
当初は数倍書いた説明文を削りに削り、できるだけ簡潔に分かりやすく記述することに心がけました。草稿関連の展示パネルがようやく完成したのは前日のことでした。
以上のような経緯と考え方により、展示室2での『若者のすべて』草稿関連の展示があのような形となりました。
アンケートなどを読む限り、『若者のすべて』草稿の展示については肯定的評価がほとんどでした。ご覧になった方々の反応は何よりも、このような草稿が遺されていたことに対する「驚き」という一点に集約されます。そして、志村正彦の創作過程の具体的姿に触れることができ、歌詞を読み直す契機となったという感想も多く寄せられました。企画担当者としては、草稿展示の意図を理解していただいたようで、有り難く思いました。
『若者のすべて』草稿は、あの展示室で閲覧していただいた方の「記憶」の中にのみ存在しています。上記の経緯から、この公式web上でもこの草稿本文の公開はできません。そのような事情をどうかご理解ください。(当然ですが、企画展担当者も例外ではありません。個人としてもあの草稿の本文に言及することは一切ありません)
これはあくまで企画担当者の個人的意見ですが、『若者のすべて』草稿が公開されるとしたら、信頼できる出版社から信頼できる書物によって公刊する形で公開されることが望ましいと考えます。その上で、志村正彦の聴き手が各々自由に、この草稿を読み、この草稿について考える時が訪れることを願っています。
2014年8月8日金曜日
二つの記事と写真、メッセージとアンケート [展示をふりかえって 8]
展示室2では、壁面の4分の1ほどのスペースを使って、『音楽と人』に掲載されたインタビュー記事四つ[樋口靖幸氏が志村正彦を取材した記事(2005年12月号、2008年2月号、2009年6月号)と金澤・加藤・山内の3氏を取材した記事(2010年8月号)]と、『H』2006年3月号の記事(母校吉田高校で取材したもの)の計五つの雑誌記事をそのままB2ポスターケースに入れて展示しました。
特に、『音楽と人』2005年12月号と2010年8月号の二つの記事は共に富士吉田での取材に基づいて書かれています。二つとも、忠霊塔へと上る階段の同じ位置で撮影された写真が掲載されています。2005年12月号では志村正彦1人が、2010年8月号では金澤ダイスケ・加藤慎一・山内総一郎の3人が、あの階段で佇んでいます。背後には富士吉田の街が広がっています。
死は、人々の哀しみや嘆きを超えて、時に、現実を顕わにします。とても辛くなる、ある意味では残酷で悲劇的な2枚の写真です。企画担当者としては、この2枚の写真がフジファブリックの10年の現実を静かに物語っていると考え、ためらう気持ちもありましたが、御批判も覚悟の上で展示することに決めました。
特に、『音楽と人』2005年12月号と2010年8月号の二つの記事は共に富士吉田での取材に基づいて書かれています。二つとも、忠霊塔へと上る階段の同じ位置で撮影された写真が掲載されています。2005年12月号では志村正彦1人が、2010年8月号では金澤ダイスケ・加藤慎一・山内総一郎の3人が、あの階段で佇んでいます。背後には富士吉田の街が広がっています。
この二つの記事の間、2009年12月に志村正彦は急逝しました。
死は、人々の哀しみや嘆きを超えて、時に、現実を顕わにします。とても辛くなる、ある意味では残酷で悲劇的な2枚の写真です。企画担当者としては、この2枚の写真がフジファブリックの10年の現実を静かに物語っていると考え、ためらう気持ちもありましたが、御批判も覚悟の上で展示することに決めました。
展示室2の最後には、「志村正彦へのメッセージ」(志村家に贈るもの)と「志村正彦展アンケート」の2点を書いていただくコーナーを設置しました。来場された方の内かなりの方が時間をかけて丁寧に書いてくださいました。お一人が長い時間かけていらっしゃるので席がたりなくなり、途中で増やしましたが、あきらめてお帰りになったり外でお書きになったりした方もいたようで、申し訳ありません。
「志村正彦へのメッセージ」は志村さんのご家族にお渡ししました。みなさんの心のこもった言葉はきっと志村正彦さんに届いているだろうと思います。
「志村正彦展アンケート」の数は400枚以上となり、実行委員で一つひとつ読ませていただいています。本当にありがとうございました。多くの方が長文でお書きくださったので、少しお時間をいただきますが、今後アンケートについてもご紹介していきたいと考えています。
「志村正彦へのメッセージ」は志村さんのご家族にお渡ししました。みなさんの心のこもった言葉はきっと志村正彦さんに届いているだろうと思います。
「志村正彦展アンケート」の数は400枚以上となり、実行委員で一つひとつ読ませていただいています。本当にありがとうございました。多くの方が長文でお書きくださったので、少しお時間をいただきますが、今後アンケートについてもご紹介していきたいと考えています。
2014年8月3日日曜日
展示室2の構成 [展示をふりかえって 7]
今回から、「展示とフォーラムをふりかえって」は展示室2に移ります。
展示室2では、当初、展示室1のⅠ部「志村正彦クロニクル」に引き続いて、 Ⅱ部「ロックの詩人」、Ⅲ部 「フジファブリックの10年」という構成を考えました。しかし、展示室での作業時間の制約(12日の午前の3時間しか確保できませんでした)や展示ケースの数(会場で借りられるケースは残り1つでしたので、結局、ケースを1つ購入することになりました。予算的にはこれが限界でした)などの物理的要因で、当初の予定からかなり変更することを余儀なくされました。
色々とシミュレーションした結果、「ロックの詩人」の展示資料については、『若者のすべて』草稿ノートを中心に、『志村正彦全詩集』『若者のすべて』の楽譜等を展示ケース内に置き、壁面の解説パネルを充実させて、補足的な説明を行うことにしました。(『若者のすべて』草稿の展示意図については、項目を独立させて書く予定です)
「フジファブリックの10年」の展示については、Ⅰ部「志村正彦クロニクル」を継続する形で、
11. (志村正彦)没後の反響・出来事 [2010-2014]
というコーナーを作り、志村正彦愛用の黒いハット(今回のポスターの写真で被っているもの)、ライブで使っていたケーブルを入れたアルミケース、『Talking Rock!』等の志村追悼特集号、『FAB BOX』、『SINGLES 2004-2009』、『FAB BOXⅡ』等の没後リリース作品、モテキ関連のパンフレットなどを縦長の展示ケースに陳列しました。最も最近の動向を伝えるものとして、4月13日の『Live at 富士五湖文化センター』上映會のポスターも展示しました。
次のコーナーでは、
12. 2010~2014年 【3人編成のフジファブリック】
という展示パネルを作り、金澤ダイスケ・加藤慎一・山内総一郎の3人編成のフジファブリックの最新作『LIFE』のポスターを壁面に飾りました。(2010年以降のフジファブリックのCD、DVD等も用意していたのですが、展示ケースが足りないという物理的理由により叶いませんでした)
本当に少ないスペースで申し訳ありませんでしたが、現在のフジファブリックについても何らかの形で展示したいと当初から考えていました。
展示室2では、当初、展示室1のⅠ部「志村正彦クロニクル」に引き続いて、 Ⅱ部「ロックの詩人」、Ⅲ部 「フジファブリックの10年」という構成を考えました。しかし、展示室での作業時間の制約(12日の午前の3時間しか確保できませんでした)や展示ケースの数(会場で借りられるケースは残り1つでしたので、結局、ケースを1つ購入することになりました。予算的にはこれが限界でした)などの物理的要因で、当初の予定からかなり変更することを余儀なくされました。
色々とシミュレーションした結果、「ロックの詩人」の展示資料については、『若者のすべて』草稿ノートを中心に、『志村正彦全詩集』『若者のすべて』の楽譜等を展示ケース内に置き、壁面の解説パネルを充実させて、補足的な説明を行うことにしました。(『若者のすべて』草稿の展示意図については、項目を独立させて書く予定です)
「フジファブリックの10年」の展示については、Ⅰ部「志村正彦クロニクル」を継続する形で、
11. (志村正彦)没後の反響・出来事 [2010-2014]
というコーナーを作り、志村正彦愛用の黒いハット(今回のポスターの写真で被っているもの)、ライブで使っていたケーブルを入れたアルミケース、『Talking Rock!』等の志村追悼特集号、『FAB BOX』、『SINGLES 2004-2009』、『FAB BOXⅡ』等の没後リリース作品、モテキ関連のパンフレットなどを縦長の展示ケースに陳列しました。最も最近の動向を伝えるものとして、4月13日の『Live at 富士五湖文化センター』上映會のポスターも展示しました。
次のコーナーでは、
12. 2010~2014年 【3人編成のフジファブリック】
という展示パネルを作り、金澤ダイスケ・加藤慎一・山内総一郎の3人編成のフジファブリックの最新作『LIFE』のポスターを壁面に飾りました。(2010年以降のフジファブリックのCD、DVD等も用意していたのですが、展示ケースが足りないという物理的理由により叶いませんでした)
本当に少ないスペースで申し訳ありませんでしたが、現在のフジファブリックについても何らかの形で展示したいと当初から考えていました。
2014年8月2日土曜日
展示室1のアルバム [展示をふりかえって 6]
2014年7月27日日曜日
初公開の写真 [展示をふりかえって 5]
展示室1では、志村正彦の生涯をふりかえるために、彼自身の言葉を「志村語録」というパネルにして展示しました。出典は、展示室2の分を含めて、著書『東京、音楽、ロックンロール 完全版』、雑誌『音楽と人』『Talking Rock!』『H』等です。株式会社トーキングロック、株式会社 音楽と人、株式会社ロッキング・オンからは事前に許諾を得ました。どの社もとても協力的で、ありがたかったです。志村正彦、フジファブリックに対するリスペクトが感じられました。
語録は、志村正彦の人生と作品を解き明かす鍵となるような言葉を選びましたが、スペースの制約から、当初予定の半分ほどの数となりました。また、アビーロードスタジオでの出来事や本人が語った4枚のアルバムのテーマについては解説パネルも作りました。
写真については、志村家所蔵の写真、所属事務所の株式会社ソニー・ミュージックアーティスツ、(株)ロフトプロジェクトからご提供のものを使用でき、「クロニクル」に相応しい質と量が備わりました。改めて感謝を申し上げます。
初公開の写真も含まれていました。中でも、2009年12月23日の日付の写真、志村さんの笑顔の表情を伝える写真2点はこれまで見ることのできなかったものでした。(小さな写真をスキャンしてかなり拡大したもので、画像が粗いものでしたが、ご了承ください)
写真の中の志村正彦はほんとうに楽しそうに笑っています。私たち企画担当者は、写真の快活な笑顔から、これからの活動に向けた彼の夢や希望のようなものも感じました。明くる年2010年には、新アルバムや「フジフジ富士Q」ライブが予定され、志村正彦、フジファブリックにとって大きな大きな飛躍の年となるはずでした。しかし、その翌日24日に、原因不明の身体の異変で突然、29年の生涯が閉じられてしまいました。
この写真はプライベートなものであり、ご家族にとってはとても大切なものです。ですが、 私たちは、その姿を彼を愛するファンの方々に見ていただきたいと考え、是非にとお願いしました。そして、経緯や細かい説明を省いて、「2009年12月23日」というクレジットのみで展示することになりました。
展示室1は、この写真を最後の展示にする構成としました。
2009年12月24日に志村正彦の人生は閉じられましたが、その日以降も、志村正彦の作品は現在そして未来の聴き手に永遠に開かれ、存在し続けます。そのような祈りを込めました。
語録は、志村正彦の人生と作品を解き明かす鍵となるような言葉を選びましたが、スペースの制約から、当初予定の半分ほどの数となりました。また、アビーロードスタジオでの出来事や本人が語った4枚のアルバムのテーマについては解説パネルも作りました。
写真については、志村家所蔵の写真、所属事務所の株式会社ソニー・ミュージックアーティスツ、(株)ロフトプロジェクトからご提供のものを使用でき、「クロニクル」に相応しい質と量が備わりました。改めて感謝を申し上げます。
初公開の写真も含まれていました。中でも、2009年12月23日の日付の写真、志村さんの笑顔の表情を伝える写真2点はこれまで見ることのできなかったものでした。(小さな写真をスキャンしてかなり拡大したもので、画像が粗いものでしたが、ご了承ください)
写真の中の志村正彦はほんとうに楽しそうに笑っています。私たち企画担当者は、写真の快活な笑顔から、これからの活動に向けた彼の夢や希望のようなものも感じました。明くる年2010年には、新アルバムや「フジフジ富士Q」ライブが予定され、志村正彦、フジファブリックにとって大きな大きな飛躍の年となるはずでした。しかし、その翌日24日に、原因不明の身体の異変で突然、29年の生涯が閉じられてしまいました。
この写真はプライベートなものであり、ご家族にとってはとても大切なものです。ですが、 私たちは、その姿を彼を愛するファンの方々に見ていただきたいと考え、是非にとお願いしました。そして、経緯や細かい説明を省いて、「2009年12月23日」というクレジットのみで展示することになりました。
展示室1は、この写真を最後の展示にする構成としました。
2009年12月24日に志村正彦の人生は閉じられましたが、その日以降も、志村正彦の作品は現在そして未来の聴き手に永遠に開かれ、存在し続けます。そのような祈りを込めました。
2014年7月26日土曜日
ご両親・ご友人・恩師の言葉 [展示をふりかえって 4]
展示室1には、ご両親、ご友人、恩師、の5人の方々から寄せていただいた思い出話をパネルにして展示しました。これまで発言されることはなかった方々の証言が含まれます。来場者も熱心に一つひとつ読んでいました。今回はその一部を紹介させていただきます。
小学校以来の友人で「富士ファブリック」のメンバーだった渡辺平蔵さんは、「正彦の歌を聴いていると、幼い頃から一緒に過ごした風景を感じることがよくあります」と述べ、「正彦は『努力と研究の天才』だったと思います」「研究の対象を見つける感性があって、自分でそれをとことん研究して消化していきます」「音楽CDをたくさん持っていていましたし、その他にも、本、映画、ドラマからも何かを得て、自分のものとして取り込んでいました」と語ってくださいました。
同じく友人で「富士ファブリック」のメンバー小俣梓司(おまたしんじ)さんは、「普通の男子高校生が普通に遊んでいる感じ」と高校時代のバンド活動について触れ、「誰しもが若かりし頃、共通の趣味を媒介としてその趣味以外のことを含め、人と友情を築いていくのと同じように、私たちは『富士ファブリック』というものを媒介として普通に、そしてただ無邪気に遊んでいたように思えます」とふりかえり、「私にとってその時間は今でもとてもかけがえのない大切なものです」と書いてくださいました。
富士吉田そして東京で、少年期から青年期にかけての時間を共有した友にしか見えない志村さんの姿があったのでしょう。志村さんに対する深い理解と愛情が込められたコメントでした。志村さんが「幼馴染み」バンドへのあこがれを繰り返し述べてきたこともうなずけます。
高校3年生の時のクラス担任の赤池宏己先生は、「多くを語らないが、はにかんだ笑顔とくっきりと澄んだまなざしに、意志の強さを感じました」と志村さんを描き、三者面談の際に「卒業後の進路を打ち明けられたとき、それを否定する理由はありませんでした。その時の彼はさすがに神妙な面持ちでしたが、担任の立場よりも私個人の思いとして、夢を追いかけてほしいと願ったことを覚えています。」と書いてくださいました。
自身も美術の教師であり、絵画を創作している赤池先生は、音楽の道を進む志村さんに対して、芸術の道に生きることの厳しさを乗り越えていく意志と力を感じとっていたのでしょう。
母妙子さんに語っていただいた正彦さんの上京前の様子、自炊のために料理を習ったり、家の中や近くの道、富士吉田の街や自然を慈しむように眺めていたりした姿からは、志を抱いて故郷を後にする決意と、家族や周囲への愛情が表れていました。ご家族がそれを静かに見守っていた様子も感じられました。
父清春さんは、高校入学の頃、甲府の岡島百貨店でギターを初めて購入したときのエピソードをお話ししてくださいました。正彦さんがアルバイト代で払うと買ってきたギブソンのレスポールスペシャル。本人は3万8000円と言っていたが、後になって月々3万8000円の10回払いだったと知ったこと、約束通りアルバイトをして払いきったこと、それだけ音楽に真剣だったのだろうとふりかえっていらっしゃいました。
志村さんを身近で見ていらっしゃたご両親、ご友人や恩師の言葉は、プロのミュージシャンになる以前の志村正彦を浮かび上がらせる重要な証言でした。ご多忙のところ、貴重な言葉を寄せていただき、この場をお借りして改めて、感謝を申し上げます。
小学校以来の友人で「富士ファブリック」のメンバーだった渡辺平蔵さんは、「正彦の歌を聴いていると、幼い頃から一緒に過ごした風景を感じることがよくあります」と述べ、「正彦は『努力と研究の天才』だったと思います」「研究の対象を見つける感性があって、自分でそれをとことん研究して消化していきます」「音楽CDをたくさん持っていていましたし、その他にも、本、映画、ドラマからも何かを得て、自分のものとして取り込んでいました」と語ってくださいました。
同じく友人で「富士ファブリック」のメンバー小俣梓司(おまたしんじ)さんは、「普通の男子高校生が普通に遊んでいる感じ」と高校時代のバンド活動について触れ、「誰しもが若かりし頃、共通の趣味を媒介としてその趣味以外のことを含め、人と友情を築いていくのと同じように、私たちは『富士ファブリック』というものを媒介として普通に、そしてただ無邪気に遊んでいたように思えます」とふりかえり、「私にとってその時間は今でもとてもかけがえのない大切なものです」と書いてくださいました。
富士吉田そして東京で、少年期から青年期にかけての時間を共有した友にしか見えない志村さんの姿があったのでしょう。志村さんに対する深い理解と愛情が込められたコメントでした。志村さんが「幼馴染み」バンドへのあこがれを繰り返し述べてきたこともうなずけます。
高校3年生の時のクラス担任の赤池宏己先生は、「多くを語らないが、はにかんだ笑顔とくっきりと澄んだまなざしに、意志の強さを感じました」と志村さんを描き、三者面談の際に「卒業後の進路を打ち明けられたとき、それを否定する理由はありませんでした。その時の彼はさすがに神妙な面持ちでしたが、担任の立場よりも私個人の思いとして、夢を追いかけてほしいと願ったことを覚えています。」と書いてくださいました。
自身も美術の教師であり、絵画を創作している赤池先生は、音楽の道を進む志村さんに対して、芸術の道に生きることの厳しさを乗り越えていく意志と力を感じとっていたのでしょう。
母妙子さんに語っていただいた正彦さんの上京前の様子、自炊のために料理を習ったり、家の中や近くの道、富士吉田の街や自然を慈しむように眺めていたりした姿からは、志を抱いて故郷を後にする決意と、家族や周囲への愛情が表れていました。ご家族がそれを静かに見守っていた様子も感じられました。
父清春さんは、高校入学の頃、甲府の岡島百貨店でギターを初めて購入したときのエピソードをお話ししてくださいました。正彦さんがアルバイト代で払うと買ってきたギブソンのレスポールスペシャル。本人は3万8000円と言っていたが、後になって月々3万8000円の10回払いだったと知ったこと、約束通りアルバイトをして払いきったこと、それだけ音楽に真剣だったのだろうとふりかえっていらっしゃいました。
志村さんを身近で見ていらっしゃたご両親、ご友人や恩師の言葉は、プロのミュージシャンになる以前の志村正彦を浮かび上がらせる重要な証言でした。ご多忙のところ、貴重な言葉を寄せていただき、この場をお借りして改めて、感謝を申し上げます。
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